文句を言っていたら、
山口二郎から直接メールが来た。
前稿の最後に画像を貼った岩波新書『政治改革』では、自分は明確に小選挙区制には反対していたのだと反論している。さて、本当にそうかなと思って読み返したが、全体を通して小選挙区制に反対という主張には読めない。強いて言えば、「完全小選挙区制に反対」の意味での「小選挙区制に反対」だろう。新書では確かに小選挙区制の問題点を指摘してはいるけれど、山口二郎もまさか比例代表制だけに切り替えると考えていたはずはあるまい。すなわち現行制度への移行を念頭に置いて中選挙区制の廃止を主張していたはずである。本の中では中選挙区制はだめだから止めろと書いているし、自民党と社民勢力党派の二大政党制による政権交代こそがあるべき日本の「政治改革」の方向だと書いている。以前から不審に思っていることだが、この問題の岩波新書はこの十年間ほどずっと品切れを続けていて、一般読者が店頭で簡単に入手できなくなっている。何故なのだろうか。
本の文面からは、確かに山口二郎の「小選挙区制導入唱導」の証拠を押さえることはできない。だが、新書が発売された93年当時、山口二郎が内田健三の介添で久米宏の「ニュースステーション」に頻繁に出演して、「二大政党制による政権交代」をエンバンジェライズし、そのためには現行中選挙区の選挙制度を変えなければならない旨を言い、それが「政治改革」だと何度も強調していたことは覚えている。山口二郎は「政治改革」のブームに便乗してテレビで売り出した若い岩波文化人であり、そのプロモーションを全面的にサポートしたのが「政治改革」の大御所の内田健三だった。細川護煕が「政治改革新党」の立ち上げを発表したのが92年の5月。すぐに『ニュースステーション』に生出演して、そこから「政治改革」のエバンジェリズムが始まった。エバンジェリズムの先頭に立っていたのは内田健三で、内田健三と山口二郎の老若二人が「政治改革」イデオローグの代表格だったと言っていいだろう。佐々木毅はテレビには出なかった。
山口二郎については「政治改革」で出世して荒稼ぎした商売上手な政治学者という印象しかない。で、この印象は少なくない数の市民において
共通のものではないかと思われる。結論から言えば、あのとき選挙制度を絶対に変えるべきではなかったし、中選挙区制を維持すべきだった。「政治改革」は嘘であり騙しである。まさに現在の「構造改革」と同じく大衆を騙して操作するシンボル装置だった。そんなものに乗っかればその先どこに連れて行かれるか、真面目に考えれば誰でも分かっていたことだ。「政治改革」の代名詞の政治家は小沢一郎である。小沢一郎が自民党実力者時代から「政治改革」を唱えていて、その中身は小選挙区制の導入だった。それは何のことはない、師匠の田中角栄の悲願(カクマンダー)の実現であり、何のために小選挙区制にするかと言うと、言わずと知れた日本を「普通の国」に変えるためだった。解説するまでもないが、小沢一郎の「普通の国」とは憲法9条を改正して戦争が普通にできるようになる国のことを言う。
その小沢一郎の「政治改革」に朝日新聞が乗ったのである。92年から93年頃の朝日新聞は小沢一郎を改革の旗手として絶賛する記事を書いていた。あの佐川急便事件にも疑惑(カネの受け渡し現場で灰皿持ってウロウロ)が取り沙汰された小沢一郎を「政治改革」の旗手として褒めそやかす朝日新聞が理解できなかったが、何十年も前から社公民路線を牽引して自民党と政権交代する大きな対抗勢力の結集に奮闘してきた朝日新聞が、これを機会に日本の選挙制度を中選挙区制から小選挙区制に転換する一大キャンペーンに着手奔走したのは明らかだった。内田健三の「ニュースステーション」でのプロパガンダもその一環をなす。これは何やら朝日新聞内部での権力闘争とも関連していた印象があり、事情はよく分からぬが、従来の朝日新聞の顔であり、小選挙区制の不当と中選挙区制の保守を言い続けた石川真澄が社を出て、早野透と星浩が論説権力の頂点に立った。下克上の観があった。小沢一郎を宣伝していたのは早野透だったのだろうか。
シンボルとしての「政治改革」の本質を了解していたのなら、政治学者はそれを正面から批判しなければならなかったのである。「政治改革」をイデオロギー暴露する知識人の立場にこそ立たなければならなかったのであり、ましてやそれを出世や商売の道具などにしてはならなかったのだ。大衆を騙して支配者(アドミニ)の思惑どおりに操作する任務を自覚した佐々木毅ならそれは許される。支配の側のイデオローグは仕事だから構わない。だが批判精神を期待される岩波文化人がそれをやってはいけないだろう。そもそも政治とは改革するものではない。「政治改革」という言葉そのものが欺瞞に満ちた虚偽意識の象徴言語ではないか。「政治」と「改革」の二つの語は一つに熟せしめるべきものではない。そのような概念の使用を安易にしてはならない。「政治改革」のシンボル操作の成功が今日の新自由主義の「構造改革」の操作の成功に繋がっている。「改革」の騙しが連綿と続いている。だから「政治改革学者」の責任はきわめて重い。とりわけ山口二郎と後房雄の二人の責任は重い。二人はまず自己批判すべきだ。
「改革」のシンボルを独占して新自由主義革命を遂行する小泉政権を倒すためには、「左派が対抗的な改革の理念を提案」すればよいのではない。そのような安直で浅薄な、官僚ペーパー的な軽っぽい対抗手段で状況を打開させられるわけがない。「小泉改革」の政治に勝てるはずがない。違う。君はわかっていない。マルクスが「資本論」を書いて示したように「
改革論」を示さなくていけないのだ。「改革」をその根底からグリップして批判し、その由来と機能をあますところなく暴露するしかないのだ。マルクスのあと人々が「資本主義」の言葉で体制を批判視したように、「改革主義」の言葉で人々が「改革」を批判するようにしなければならないのだ。暴露によって解体するのだ。暴露によってイデオロギーの力を無力化するのだ。「改革」をプラスシンボルとして綱引きしようとする限り政治に敗北する。知識人が「改革論」を書いて「改革」を相対化すればよいのだ。「小泉改革」の犠牲になっている大衆が、「改革」の虚偽と欺瞞と詐術に目覚め、「改革」の呪縛と観念支配から脱するイデオロギーのブレイクスルーをプルーブすればよいのだ。