岡田克也は惨敗の夜の生中継で「次の選挙で必ず政権交代する」と言った。が、その言葉をリアリティを持って受け止めた人間は、民主党の議員や支持者も含めて、果たして何人いただろうか。今回の結果は自民党の296議席に対して113議席。半分以下だ。選挙期間中さんざん「小泉改革」を宣伝して支援し続けてきたマスコミは、選挙が終わった途端に選挙中の自分の所業は忘れて、「次の選挙はどちらに風が吹くか分からない」などと無責任なことを言っている。何と欺瞞的な言い方だろうか。小泉自民党を圧勝させたのはマスコミで、小泉首相が「改革」を掲げて演出政治を続ける限り、それが党内闘争であれ、国会論戦であれ、国政選挙であれ、マスコミは必ず「小泉改革」を礼賛して小泉自民党を勝利させるのだ。選挙が終わった途端に元の
放送法の中立原則の建前の皮を被り直して、また視聴者国民を欺き始めたが、選挙が始まったらすぐに中立公平の衣を脱ぎ捨てて、獰猛果敢に野党攻撃を再開するのは目に見えている。
この国の体制が変わったのであり、今回の事態は
革命なのだ。マスコミは今後絶対に報道の中立は守らない。現在のマスコミにとって「中立」とは「小泉改革」を宣伝して応援することだ。権力の一角(第四の権力)を占めるマスコミが小泉政権の基盤の一部になったのであり、すでに独立でも中立でもない。新自由主義の革命権力によってマスコミが制圧され拠点化されたのだ。二度と逆戻りはしない。民主党が選挙で勝つ条件は論理的に失われている。上の「次の風」の話は
岸井成格と
田勢弘康が言っていた台詞だが、「風」を起こしたり吹かせたりするのは当の本人ではないか。要するに、勝たせて欲しかったら俺の言うことを聞けと二人が民主党を脅しているのであり、赤坂か築地で美味いものを毎週食わせろと民主党に強請っているのだが、たとえ民主党が岸井成格と田勢弘康を料亭で接待漬けにしても、次の国政選挙が始まった瞬間、二人は賄賂も接待もケロッと忘れて「小泉改革」支持のプロパガンダに狂奔するに違いない。
現在の政治はファシズムであり、「小泉改革」に逆らう者は社会の中で生きる場所を与えられない。小泉政権が今後提出する全ての法案と政策は「改革」のシンボルマークでパッケージされ、神聖化され正当化される。その法案や政策に反対する立場や勢力は、「改革」に反対する抵抗勢力としてマスコミに集中砲火を浴びる。反対ではなく対案を出せと言われ、対案とはすなわち小泉政権の法案や政策に対立しないもののことを言う。つまり対案を出せというのは翼賛せよというのと同じ意味なのだ。野党は小泉政権の翼賛勢力としてしか認められない。今後、小泉政権が教育基本法改正案を出す。防衛省格上げの法案を出す。サラリーマン増税の税制改革案を出す。それらに野党が反対すれば、それは「改革」への抵抗であり、報道番組で袋叩きにするべき政治悪なのだ。野党はそれらに反対してはならず、「対案」を出さなければならない。小泉政権の打ち出す施策に基本賛成して、微細な部分で違いを出すことだけが求められ、許容される。
そして選挙になれば、対案の出し方が拙かったのだと非難される。基本的に賛成だったら最初から法案に賛成しとけと罵倒される。政府案に反対をしたお前らは「改革」への反逆者だと言われて容赦なく吊し上げられる。要するに野党はもう要らないということなのである。小泉自民党だけが「改革政治」をやればよいということだ。野党は形だけの飾りでいいとマスコミは言っているのだ。だから
ファシズムだと私は言っているのである。今後、マスコミが政権批判をすることは絶対にないだろう。小泉政権と小泉傀儡政権が続くかぎり、「改革」は戦前の「国体」と同じ拘束力と強制力を持って日本の政治を支配する。誰も「改革」を否定できない。「改革」が「国体」であり、小泉首相が昭和天皇である。二大政党制の時代は終わったのだ。形式制度上は二党が政権交代を競う二大政党体制だが、実質は違う。小泉構造改革の政治が続くかぎり、民主党は翼賛政党としてしか存続することができない。「改革政治」の補完野党としての存在意義しかない。
共同通信の後藤謙次は「05年体制の確立」と言ったが、この言い方の方が当を得ている。「05年体制」とは別名「改革ファシズム体制」である。二大政党制の時代は終わった。小泉純一郎が改革独裁権力を維持するかぎり、実質的な二大政党体制はない。少なくとも今後四年間はない。民主党は国会の議席をこれから減らすだろう。党の分裂内紛か自民党からの引き抜きか、政権への可能性を断たれた現在、議員のモラルは下がる一方で、党の存在意義を疑い、幹部の政治能力を疑う者が少なからず出てくる。小泉純一郎は296人を一人で束(ファッショ)にできる強い指導者だが、わずか113人を統率できる指導者が民主党にはいない。菅直人が引っ張れるのは40人ほどで、小沢一郎が引っ張れるのは30人ほどだ。その問題と関連して思い出すのは、注目選挙区だった広島六区や岐阜一区や静岡七区の民主党候補の非力と凡庸で、これは実に印象的で対照的だった。民主党が真面目に選挙の準備をしておらず、人材の面で政権交代の能力を持っていないことは、刺客選挙区の候補者を一目見てよく分かった。ただのおバカなサラリーマン崩れだった。