二大政党制の下での政権交代という幻想は完全に
崩壊したと言ってよいのではないか。この先、小泉政権の「改革政治」が続くかぎり、衆院113議席の民主党は翼賛政党としての存在意義しかあり得ない。小泉政治とポスト小泉政治が「改革」のシンボルを独占して、絶対正義の「改革政権」としてオーソライズされ続ける以上、一体どこに政権交代の可能性があると言うのだ。「改革」は小泉自民党の代名詞であり、民主党はそれを嫌がる愚劣な反対政党でしかない。そして議席は与党の三分の一しかない。二大政党の一党などというような偉そうな存在では最早ないのだ。演出政治の噛ませ犬でしかなく、小泉劇場の政治の斬られ役の弱い悪役でしかない。民主党は今回の惨敗のツケをこれから払わされる。これから民主党の連中が惨めな思いをする番だ。「サンデープロジェクト」の田原総一朗とか、「テレビタックル」の浜田幸一がボロクソに罵倒する。結果は尾を引く。民主党の支持者が支持者でいるのが嫌になるテレビ政治の拷問と苦痛が延々と続く。
民主党の敗因について様々な角度から議論が上がっているが、私が取り上げたい本質的な問題として、岡田克也を含めて民主党の幹部たちは、政治と行政の区別がついていないのではないかという疑念がある。政治と行政の概念の混同。政治を行政と同じものだと錯覚している。岡田克也は政治家ではなく行政家なのだ。マニフェストというのは政治ではなく行政の範疇の問題である。岡田克也は行政家としての自分の有能さを必死で国民に訴えていたのであり、行政家集団としての民主党を売り込んでいたのである。岡田克也は民主党が自民党よりもはるかにいい行政運営ができることを知っているし、自分が小泉純一郎など比較にならぬほどの有能な政策通であることを知っている。そのことがなぜ国民に認めてもらえなかったのだろうと口惜しく思っているに違いない。そうではないのだ。君は分かってないのだ。政治とは行政ではないのである。政治家の能力とは行政家の能力のことを言うのではない。権力を奪らなくては行政もできないじゃないか。
岡田克也の人格の中には政治闘争の経験やセンスが全く感じられない。情勢判断や人心掌握の才能が欠如している。さらに言えば政治哲学の要素がない。だから演説に迫力がない。民主党が訴えたのは行政プロパーのサービスカタログであり、民主党の行政サービスの方が自民党の行政サービスより上だという主張だけである。それがあのマニフェスト・ポリティックスであり、早い話が行政施策の宣伝競争だ。だが政治は行政ではない。違う。国民が選ぶのは政治の指導者であって行政の指導者ではないのだ。政治的手腕のある指導者に一票を投ずるのである。行政と政治の区別がついてない岡田克也は、小泉首相と武部幹事長が鬼気迫る形相で刺客候補を擁立していた頃、民主党本部の幹部会で締まりのない顔で選挙対策会議をやっていた。その会議は異様で、党首の岡田克也が正面議長席の羽田孜の横に座って幹部の話を頷いて聞くというもので、実に緊張感のないシラけた映像だった。久々にテレビに出た羽田孜が嬉しくてたまらず笑っていた。
あの二つの映像のコントラストを見ただけで、三週間後の選挙結果が予想できたというものである。国民は「強い指導者」を求めているというのに、岡田克也はそれに気づかず、真剣で清潔な行政家をアピールすれば有権者は選択してくれると考えていた。民主党の若い連中は政治というものを知らない。政治を行政だと観念している。松下政経塾を卒業することが政治家の能力と資質の証明だと思っている。政敵と戦うこと、権力を取ること、集団を組織すること、大衆を説得することを知らない。行政の知識だけでは政治の知識にはならないのだ。政策に精通しているだけでは政治家の能力にはならない。小泉純一郎に一票を投じた有権者の殆どはマニフェストの読み較べなどやってはいない。次の選挙も、その次の選挙も、いくら民主党系の論者(北川正恭・佐々木毅)がマニフェスト選択を宣伝しても、有権者はそんなものでは政党支持を左右されない。書き並べている行政目標項目など、どうせ後で反故にされるものであり、その場凌ぎの紙切れだからだ。
小選挙区制の導入と二大政党制の演出が日本の政治から政治の本質(哲学理念・権力闘争)を奪い取って政治を行政化した。行政を政治だとして(スリカエて)国民の観念を押し固めた。民主党というのはまさに「行政化された政治」が体現された政党なのだ。政治哲学のない、没政治理念の、政治的人格と政治指導者を欠く、政策を僭称する行政項目羅列のみの、行政屋予備軍集団、それが民主党なのである。岡田克也は(政治の本来性を剥落させた無味乾燥な)民主党を象徴する人格であり、しかも彼は小沢一郎と菅直人が勢力均衡する組織の中心に暫定的に置かれた「雇われ党首」だった。権力を奪い合う政治の本質を理解も洞察もしていなかった。だから郵政国会と衆院解散の際に油断したのであり、隙を衝かれたのであり、体勢を立て直せなかったのである。小選挙区制導入によって幕が開いた二大政党制追及の時代は終わった。これまで共産社民から民主に流れ込んでいた左派の流票現象が止まった。左派の側の有権者が幻想から醒めたのだ。
二大政党制の幻想を振り撒いて国民を騙し、日本に小選挙区制を実現させたのは、この十年間ずっと民主党を応援してきた政治学者の諸君である。
佐々木毅、
山口二郎、
後房雄。君らは現下の改革ファシズム体制の完成を見てどう思うか。こうなった責任は君たちにあると
思うが、どう国民に詫びるつもりなのか。