岩波新書『政治改革』を買って読んだのは今から12年前のことだが、これを読んだ頃から私は岩波新書を買うのをやめた。それ以前は、本屋に岩波新書の新刊が並ぶと、中身も見ずに衝動買いでパパッと二、三冊をレジに持って行くということがよくあった。著者の名前など知らなくても、岩波書店というブランドで中身を信用し、価値を期待して対価を支払っていたのである。ニ、三冊を鞄に入れて、読むか読まぬかは往復の電車の中での気分次第で、本棚に岩波新書の背表紙の列が増えるのは趣味として悪くなかった。が、山口二郎の『政治改革』を読んだ頃から一転した。自分が岩波書店とそのビジネスパートナーに「騙されて貢がされている」感覚を持ったからである。ブランドへの信仰が失墜した。岩波書店は、私の中では「戦後民主主義の良心と信念を持ったアカデミーの総本山」のはずだった。憲法の精神で日本を民主化する前衛だった。それが「政治改革」の詐術に便乗して小選挙区制のエバンジェリズムに一役買っていた。
私の個人史の中で、この新書の持つ意味は決して小さくない。「戦後民主主義のアカデミーの総本山」だった岩波書店は、この頃から「官僚アカデミーの総本山」となり、同時に「戦後民主主義を解体脱構築するアカデミーの総本山」となった。文部省の出版部のような印象になった。あの吉野源三郎の岩波書店が、戦後民主主義の解体に手を貸しているのかと思うと憂鬱で、信用できなくなって、新刊の単行本と新書には手が出なくなった。文庫本の青帯だけが本棚に増えて行った。話が少し飛躍するが、新自由主義が日本でやすやすと勝利を収め得た思想的背景には、新自由主義が壊そうとしたものを、左側の脱構築主義が先に壊してくれていたから簡単にできたという事情が間違いなくある。日本の知識世界では権威を持っているのは左側であり、だからそれは強力な破壊力を持っていた。山之内靖の「総力戦論」に始まる戦後日本に対する解体脱構築運動の奏功は、新自由主義革命にとって頑強な思想的抵抗物を最初から除去してくれていた。
戦後民主主義の思想と達成を否定したのは、他ならぬ岩波文化人であり、岩波書店に集った官僚アカデミーの名士たちが、戦後民主主義と近代福祉国家の理念を過去のものにしてくれたのである。山之内靖、酒井直樹、子安宣邦、姜尚中、上野千鶴子。丸山真男と大塚久雄は「国民主義」だから駄目だということになり、大塚久雄のウェーバー解釈は誤謬だったという結論になり、近代主義は思想的撲滅の対象となり、戦後日本の知識人が唱えてきた主張は十派一絡げで時代遅れの焼却処分となった。戦後民主主義の思想と新自由主義の思想が決定的に対立するのは、
エゴイズムを認めるか否かという根本的でシンプルな問題に収斂するはずだ。新自由主義の側から言えば、その対立は社会主義vs自由主義の対立となる。人間は自分だけがよければいいのか、それとも他と助け合って生きるべきなのか。戦後民主主義はエゴイズムを排する。弱い者いじめを嫌う。格差と貧困を嫌う。そういう思想的属性を持っている。日本人に利己主義との絶縁を説く。
戦後民主主義の国民主義とは、まさに平等主義の思想であり、権利平等の社会思想である。戦後民主主義がどれほど弱い者いじめが嫌いかは、『君たちはどう生きるか』を読めば分かる。われわれが小学生の頃の教師たちは皆そうだった。戦争体験を持っていた教師たちは、貧困と格差を嫌い、弱い者いじめを嫌う人格において共通であり、生徒たちに「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」と教えていた。師範学校出の中年の教師は特に、そして教育学部出身の若い教師も、そういう教育哲学を強烈に持っていた。解体脱構築の社会科学の言説は、戦後民主主義の「国民主義」を揚棄することで、その平等主義を無意味化した。協同主義や扶助主義の契機を全面否定した。そして個人主義と個性主義を対置した。だからそこにやすやすと新自由主義が入ってきたのだ。新自由主義が無人の野を行くが如く日本の思想世界を席巻支配できたのだ。鍵はエゴイズムの扱いにあったのである。脱構築主義は日本人をエゴイストに導いた。
若者たちが新自由主義の折伏に納得し、その扇動に呼応するのは、新自由主義の説くエゴイズム礼賛に彼らが説得力を感じるからだ。都市の若者は過重な負担を強いられている。日本の福祉制度は高齢者に過剰な給付を与えすぎて若い世代を犠牲にしている。日本の経営システムは戦後以来の「社会主義」の影響で年功序列の弊害があり、能力主義と個性発現の機会を押さえ込んでいる。こういう説教が心によく響いて竹中平蔵の自民党に一票を投じるのである。新自由主義革命が勝利すれば、自分たちの余分な負担が減り、自由な能力が発揮できて、事業で成功できてカネが儲かると思い込むのだ。高齢者や農村の住民は、これまで「社会主義」のシステムで手厚く保護され過ぎていたから、これからは市場社会の応分の痛苦を感じてくれと考えているのだ。それが彼ら若者の正論なのだ。このエゴイズムの「正論」が彼らの内面に葛藤や齟齬なく入るのは何故なのだ。それは戦後民主主義の規範主義と互助主義の思想が失われたからではないのか。
山口二郎以上に反省するべきは、戦後思想を否定して脱構築主義を煽った岩波書店ではないかと私は思うが、違うだろうか。