TBでエンドースメントのメッセージを送ってくれたブロガーの皆様に心から感謝の言葉を送りたい。読みながら思ったのは、志(こころざし)を持った優秀な人たちが何人も何人もいるなあということで、日本もまだ捨てたものではないことを考えさせられた。メッセージひとつひとつに個別に答えたいことはたくさんあり、またそれが呼びかけ人の礼儀だとは思うけれど、まず総論的なところを先に申し上げよう。私はネットの中に世論の力を作りたいのであり、それが今どうしても必要だということだ。これは300bpsの無手順通信が始まり、カプラでアスキーネットに繋いだ二十年前からの私の夢だった。多数者による支配というデモクラシーの矛盾律の理想、それを実現するのは、少なくとも理想に現実を近づけるのは、手段としてのComputer & Communication の生産力水準とそれを使いこなす市民ではないかと思ったのが二十年前の昔のことで、私はその理想と言うか思想から、年をとった今でも完全に離れられない。言うまでもなく、その考え方の基礎にはマルクスの生産力論と個体的所有論の理想主義がある。
人間は生産力の発展によって必要労働の時間的拘束から徐々に解放され、自由に個性を発現する時間的余裕を得る。このマルクスの理想主義は、年齢を重ねた今でも魅力的で、人間や社会というものはマルクスが言うほど単純で単線的なものではないよと思いながらも、正面から理想論に向かい合えば簡単にそれを否定できない自分がいる。情報通信技術の生産力をキーにして多数者による支配の矛盾理の理想をブレイクスルーしようという目標を捨てられず、その信念でいつも自分をチャレンジに駆り立ててきた。挫折と挑戦を繰り返してきた。今回はその三度目の挑戦と言うか試行錯誤になる。第四の権力と言われるマスコミが機能不全に陥って他の三権を監視する能力を失ったとき、主権者たる人民は何をもって三権を制御するのか。人民を代理して政権を監視すべきマスコミが、逆に政権と癒着共謀して人民を統制支配する道具になったとき、人民は何をもって自己の意思と言論を公共空間に明らかにするのか。我々はその可能性を具体的に持っていて、それは1985年代以前の人間は持っていなかった。
ネットは最初からデモクラシーの世界であり、またカオスの世界であり、言うならば直接民主主義以外の代議制システムのない世界だ。今のマスコミを見て欲しい。例えばテレビ朝日に出てくる頭の悪い若い社員などを見て欲しい。あれはどう見ても縁故だろう。親が政治家とか、総務省の官僚とか、取引先企業の社長とか、朝日新聞の幹部とかだろう。永田町だけでなく新聞もテレビも二世が幅をきかせている。縁故入社で入って、20代半ばで芸能人気取りになって、プロデューサーの言うがままにお笑いタレント芸をやって面の皮を厚くして、安倍晋三にオフレコ料亭を満喫させてもらって、電通の営業にせがんで売出中のギャルタレを世話させて、そして視聴者をブロイラー扱いにしたクズ番組を垂れ流して喜んでいるのである。最初から貴族であり、芸能タレントなのだ。末端現場がかくの如く動いているテレビ局の権力機構の頂点に岸井成格や田原総一朗や田勢康弘がいて、自由自在に「世論」を捏造し、演出報道して「風」を吹かせている。誰がそれに異議申し立てをするのか。日本の民主主義を救う可能性はネットのブログにしかない。
そのテレビ朝日の社員が電通の営業と闊歩し酒池肉林する六本木は、六本木だけでなく丸の内や東品川や汐留などの、最近新しくできたピカピカの東京の街ではどこでもそうだけれど、首からストラップをぶら下げた体格のいい外人が胸を張って大股で歩いているじゃないか。植民地の首都で二年暮らして、日本人からマネーをぶん奪って、本国本社に業績を認めてもらって出世して帰るわけだが、四十歳前後の体のデカい米国人が左手にスターバックスのラージカップを携えてノッシノッシと歩く傍らで、そいつに寄り添って半身になってチョコチョコ小走りしている背の低い日本人がいるじゃないか。前を見ず、外人の方を見ながら、外人の顔色を気にしながら英語で一生懸命に話をしているものだから、前から歩いて来る通行人とぶつかりそうになったり、コケそうになったりして、惨めったらしく卑屈に歩いているじゃないか。奴隷。サーバント。召使。でもって、そういう卑しいサーバントな連中が年収二千万とかを取っていて、港区臨海部の新築高層マンションの住人になっていて、オレ様が「勝ち組」だあと威張りくさっているわけだろう。
会社の若い米国人幹部の前では奴隷のくせに、同じ日本人の「負け組」の前では鼻高々の貴族さまになって、所得税が高すぎるだの、竹中は早く人頭税を導入せいだの、日本の改革は遅すぎるだの言っているわけだ。歴史の授業で習った頃は、生麦事件でリチャードソンに示現流の一撃を浴びせた薩摩藩士をバカな男だと思っていたが、最近は何やらそうでもない気分になっているところが正直にある。四年くらい前に、BBCがアーネスト・サトウを描いた番組を製作して、NHKの衛星テレビで放送したのを見た記憶があるが、その中で、生麦事件の直接の犯行者が薩藩幹部とサトウの前で切腹する場面があった。目の前で腹を切って死ぬ男をサトウは正視できず、思わず顔を背け、それを平然と見つめている薩摩の武士たちの気が知れず、日本人はなぜ人前であのような蛮行をするのか、それを黙って見れるのか分からないと日記に綴っていた。視線を外しても呻き声は聞こえる。出血の臭気は鼻腔に入る。異常で狂気の様ではあるが、それが武士の生き方であり、名誉であり、礼儀なのである。非を負いつつ、悶絶の苦痛と最後の忍耐を見せることで、死と引き換えに相手を責めている。(倒錯と言えば倒錯だが)正義と勝利を手にして果てるのだ。
たくさんのエンドースメントをありがとう。心から感謝を申し上げます。
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