ウェーバーは「政治をする者は権力の中にひそむ悪魔の力と手を結んでいなければならない」と言っている。政治のリアリズムの真実を射抜く言葉だと思われるが、さて、日本の右翼の人々から見れば左翼は悪魔だろうし、逆に左翼の側からすれば右翼は悪魔そのものだろう。政治とは同意を調達し、合意を形成し、多数を組織することである。それが政治である以上、多数を制して権力を得るためには、常にあらゆる悪魔と手を結ぶ覚悟と意思を持ち、想像力を駆使して可能性を描く必要がある。関連すると思うが、田中角栄は「政治は力、力は数、」と言った。短い言葉だが政治の本質を見事に言い当てていて、この言葉は永遠に日本人の中に残る。その派閥を後継した金丸信は「政治は妥協だあ!」と叫んだ。無頼で無学な金丸信らしい一言だが、この言葉もやはり正鵠を射ていて、あのビスマルクの「政治とは可能性の芸術である」の古典的格言に通じる。不倶戴天の敵であった薩摩と同盟して革命を成功させ、新政権においては二人三脚で藩閥専制を続けた長州の事実を思うべきだ。
小泉政権とマスコミの「改革ファシズム」によって殲滅の対象になっている政治勢力は社民共産だけではない。地域住民の生活利益を守ってきた自民党議員や中小業者の陳情の窓口になってきた保守系政治家が標的にされている。彼らが「抵抗勢力」の悪役に仕立て上げられ、「既得権益」にしがみつく時代遅れで無能な石潰しの役を押しつけられている。社民共産の左派や地域職域利益の保護責任者である保守派が、国民の前で自らの正論を正論として確立できないのは、その二つの政治勢力が一つに纏まっていないからである。同じ反新自由主義の政策を主張する立場でありながら、反小泉として一つの勢力に結集できないからである。二つに分かれているから正当性を証明できず、異端化され、抵抗勢力のマイナスシンボルを押しつけられて、それを払拭できず固められてしまうのである。一つに結束すればよいのだ。数の力を作って証明すれば、多数の正義は一瞬にして政策主張の正義になる。数は説得力を生む。本来の正論が正論になる。公共福祉主義が正論になる。
政治で勝つためには、軍事と同じで、敵を分断しなければならず、逆に味方は一兵でも多く結集しなければならない。公共福祉主義の正論は、政治勢力として左右に分断され、異端化されて固定化されているから、力を失い、新自由主義革命に勝てないのである。私はそれを一つの勢力に纏めたいのだ。反新自由主義として公共福祉主義の旗の下に結集させたいのである。新自由主義と互角に戦え、それを圧倒できる政治勢力を日本の政治の中に生み出したいのだ。その「可能性の芸術」を暗中模索しているのである。私ができること、トライしていることは、主に政治の座標軸の左側にいる人々に向かって日本主義の意味を説くことであり、幕末維新の政治思想史や武士の精神を素材として持ち出すのはそのためである。われわれは日本人なのだ。松蔭や龍馬は革命家だが、現在で言うところの右でも左でもなかった。左翼も右翼も彼ら志士を自己のシンボルだと仰ぎ崇めているけれど、松蔭と龍馬の時代には右も左もない。植民地化を防がなければならぬという日本主義があっただけだ。
このことは恐らく、逆もまた真で、すなわち右翼の側に「左右共闘」を訴える論理と主張が登場しなければならない。そうしたラディカルなエバンジェリストの登場が右派の中で必要である。右派の方も飛躍しなければいけない。米国による日本植民地化の危機を打破して、日本を米国から独立させるためには、米軍基地を日本列島から締め出すためには、日本は韓国中国と手を組まなければならないはずだ。国際的に孤立化することなく、日本が米国と対等平等の関係になるためには、日本は中国と韓国と一緒になって、東アジアのブロックとして「帝国」の世界支配に対抗しなければならないはずである。右翼が蛇蝎の如く嫌忌し悪魔の如く憎悪する中国韓国と、一つの対抗勢力を組まなければ米国と互角に対峙することはできないのだ。米国の政権と資本に日本の植民地支配を断念させるためには、政治的に中国韓国と組むというカードを米国に突きつけなければいけない。少なくとも現在のファナティックな嫌韓反中プロパガンダは中止して、韓中ニ国と良好な関係を志向する必要がある。
それが右派にとっての政治のリアリズムである。韓中を無意味に挑発するのではなく、米国からの独立のために韓中の支援を得ようと主張する右派の指導者が登場すれば、そこで左右共闘は成る。反帝国、反米独立で一致できる。政治とはリアリズムとロマンティシズムの弁証法的統一だ。最後に皆様にお願いがあるのだが、特に
ブロガー同盟に参加された方は、「世に倦む日日」とthessalonikeに対して「さんづけ」で呼ぶのはやめて欲しい。呼び捨てでお願いしたい。一方的で申し訳ないが(無礼を承知で)こちらも遠慮なく呼び捨て御免を貫徹させていただく。「龍馬がゆく」の中で、桂と龍馬が最初に出会う場面だったと思うけれど、「これからは新しい時代になるのだから、拙者貴公ではなく、僕君で呼び合おう」と言う件(くだり)がある。志士である自分たちは封建社会の古い習慣ではなく新しい習慣に移行しようと言うのである。それがとても新鮮で、印象に残っている。メール通信では無礼は控えるつもりだが、Blog-to-Blogのトラックバック・コミュニケーションでは、私は呼び捨て主義を実践したい。
恐縮だけれど、ぜひそのようにさせていただきたく、同志の皆様にはよろしくお願いします。