「改革」とは福祉制度の達成を破壊して憲法(25条)が保障する国民の生活権を剥奪する新自由主義の政策と運動の総体である。国民を「勝ち組」と「負け組」の二階層に両極分解させて固定化し、「負け組」から所得と希望を収奪して、それを「勝ち組」に集中独占させる政治である。「改革」とは日本の国富を惜しみなく米国資本に献上し、日本経済を米国経済に植民地従属させる金融産業政策の別称である。「改革」とは上記の経済政策と政治構想を美称として象徴化した政治標語である。そしてそれは小泉政治の意味である。「改革ファシズム」に対抗し、それを打倒するためには、われわれは「改革」という言葉の揚棄を目指さなくてはならない。現状の肯定的な意味受容での「改革」の用語使用に楔を打ち込み、それをプラスシンボルからマイナスシンボルに転換、失墜させなくてはいけない。小泉政治の「改革」から「
従来の制度などを改めてよりよいものにすること」という日本語の一般的意味を剥離させなくてはいけない。
「改革」とは新自由主義が自らの毒性と魔性を隠蔽するための言語装置である。大衆を観念操作し政治誘導する虚偽意識である。「改革」という言葉が肯定的なイメージで小泉政権の新自由主義政策をパッケージするために、人はこの言葉の魔力によって幻惑され、対決対抗する前に半ば武装解除させられてしまう。小泉政治の「改革」は日本国民を幸福にするものではなく不幸にするものである。近代市民社会の市民を古代奴隷社会の奴隷にする政策である。「改革」によって国民は生存権の全てを剥奪される。年金も、医療も、教育も。「改革」は五千万人のホームレスとニートを生み出し、日本をフィリピンのような国に変える。新自由主義と対決するために、新自由主義から国民生活を守るために、われわれは「改革」という言葉を棄てなければならない。今日から「改革」は悪魔の象徴なのであり、近寄ってはならぬ毒蛇なのだ。辞書の「改革」の定義に新しい一項目を追加して、そこに「新自由主義の政策の総称」と記載するのだ。
「改革」に批判的観点からの政治学的定義が与えられ、その概念が一般に受容される必要がある。そのような思想史の例としてマルクスの「
資本」がある。マルクス以前の「資本」は、マルクス経済学的な特別な意味を持たない「元手」とか「ファンド」とかの意味だっただろう。政治的ニュアンスが意識されないプレーンな言語であったはずである。資本主義の勃興と同時に「資本論」が入ってきた日本は特にそうだが、そうではないヨーロッパにおいても、「Capital」の言語は一般的な意味とマルクス的な意味の二つが混在して意識され、社会生活の中で使い分けられているはずで、すなわち「Capital」という言葉の使用や受容において、ある程度ネガティブなニュアンスは必ずつきまとっているはずである。マルクスは一般用語である「資本」を悪魔の言葉に変えた。人間を幸福にしない悪魔的なシステムの表象として提示し、その概念を確立させたのである。だから辞書の「資本」の意味には一般用法とは別にマルクスの一項目がある。
そこには「増殖する価値の運動体」などという訳の分からない定義が示されていたりする。先日の金子勝の
講演でもそうだったし、民主党や社民党の政策主張もそうだが、「改革」や「構造改革」という言葉をプラスシンボルとして使用して綱引きしている点は同じである。「真の改革はわが党がやる」とか、「小泉改革ではない本当の改革はこうだ」などという言い方をしている。これでは駄目なのだ。「改革」という言葉に引きつけられ、吸収され、違いが分からなくなり、敵対的立場が曖昧になる。と言うより、実際には政策においても民主党のように改革競争になり、新自由主義をさらに過激化した中身に化けてしまう。新自由主義を否定する者は「改革」の言葉から身を離さなければならない。そして「改革」の言葉の意味を新自由主義そのものに固め、新自由主義と対決するわれわれの政策、すなわち公共福祉主義の政策は、「改革」ではない別の標語で称揚しなければならないのである。新しいプラスシンボルを掲げる必要がある。
そしてそのためには、「改革」という政治言語をマイナスシンボル化して揚棄するためには、誰か知識人が本格的な「改革論」を世に問わなければならない。マルクスの「資本論」のような「改革論」が世に示される必要がある。それは小泉政治の「構造改革」の新自由主義的本質を暴露するものであると同時に、バブル崩壊後の十四年間、ずっと日本人が「改革」の名のフェイクとトリックの政治で騙されてきた過程を暴露するものでもある。すなわち、小沢一郎と山口二郎たちの「
政治改革」、橋本龍太郎と田中直毅たちの「
行政改革」、小泉純一郎と慶応経済フリーメーソンの「
構造改革」。この虚偽と欺瞞と詐術と隠蔽で埋め尽くされた「改革史」の系譜の全体が暴露されなければならない。そのとき、初めて日本人は「改革」のマインドコントロールから解放されるのだ。「改革」の魔法が解け、観念中毒から脱出し、本来の国民経済の再建の課題に目覚め、公共福祉主義の構想と政策の支持者となる。日本人が日本人であることを取り戻す。しかし、
その「改革論」は誰が書くのだ。誰がミネルバの梟の預言者となるのだ。
Great !