創価学会の話を始めたので、ブログに注目が集まっているこの機会に若干の持論を述べておきたい。二十年ほど前、まだ若かった頃、仕事仲間と新橋の居酒屋で気炎を上げ、終電近くの時間になると私が口走っていたのが、「第三次国共合作、第二次創共協定、南北民族統一」の三つだった。このブログを始めてから、「社共合同」と「左右共闘」を呼びかけ、いずれも賛否両論の物議を醸している。私は生まれながらの共闘主義者で統一志向の持ち主であるようであり、死ぬまで変わりそうにない。政治の共闘や統一にはロマンがあり、ビスマルクの「可能性の芸術」がそこにある。困難な政治課題に挑戦して、それを見事に実現したときに歴史が刻まれる。中国と韓国を見ると、二十年前に私が酔って口走っていた夢が何となく姿を変えて実現に近づいているように感じられる。連戦の大陸訪問は嬉しいニュースだった。マイルドに両岸が統一に向かえばいい。三十年前に創と共の間で動いた松本清張も薩長同盟のロマンを追求した一人だったと言えるのだろうか。この政治史についてはあまり多くの情報がない。
情報はないが巨大な政治史の印象がある。当時は政治の転換期だった。創と共が結んでいれば、かなり大きな力になって日本の政治の方向を変えていただろう。公明党がなければ日本は社会主義になっていたとよく言われる。公明党が自らの存在の歴史的意義を誇示するときにそういう主張をする。社会主義国になっていたとは思わないが、社会民主主義の政権ができていたかも知れない。創共協定の政治は結果的に失敗したが、私は松本清張の行動は立派だったと思うし、その「可能性の芸術」を期待した国民は多かったと思うし、日本の政治に一つの歴史を作って後世の人間に課題を与え残したと思う。現在では、創も共も三十年前の自らの挑戦と冒険の事実に対して否定的で、過去の経験を後悔して捉えているような気配がある。政権に就きたかった創価学会は、「政治改革」の細川政権で橋頭堡を築き、自公連立で完全にこの国の政権与党になった。現在は実質的に自民党の非主流派閥である。自民党は創価学会なしには選挙を戦えず、政権の維持は学会の支援を不可欠の条件としている。
創価学会の側は、あのとき創共協定をご破算にしておいて本当によかったと安堵していることだろう。選択を間違えなくてよかったと確信しているに違いない。現在、創と共が組む可能性や必然性は毛ほども見えない。松本清張の英雄的奮闘の歴史も遠い昔話になってしまった。が、創価学会という存在は実に興味深くて、この政党があるから日本の政治は欧米とは一味違う形態と構造になっている。単純な二大政党制や小選挙区制に収斂せず、英国や欧米諸国とは異なる独特の日本の政治的現実が作られている。しかもその政治哲学は鎌倉仏教という近代以前の伝統を持つ思想性に依拠している。そして戦後に生まれた新興勢力ながら八百万の票を調達する組織的実力を持っている。政治が説得であり、同意と共感の獲得であり、多数の組織であるとするならば、池田大作は実に偉大な政治家であると言うべきではないか。私は、日本の政治学はあまりにこの創価学会という存在への注目や関心が過小であると考えている。その存在意義を正当に認めた上で、もっと積極的に研究分析の対象にしなくてはいけない。
創価学会に影響力を与えられるような政治学と政治学者があってもいい。一見して、日本の政治学はまず英国や米国の政治を表面を撫でる程度にペーパースタディして、国内を向いたときは民主党に注文をつけたり、自民党に改革を要請するのが関の山であり、殆ど何も言っていないのと等しい。稀に共産党に文句を言う政治学者も出るが、共産党の路線や方針に影響を与えた実績というのは皆無と言える。公明党に至っては完全にタブーで、その生態を知らない政治学者ばかりだろう。観察の困難な対象から目を逸らし、深く追求せずに済ませている。他と較べて原理主義的な性格が濃厚な、そして一枚岩の組織政党である公明党と共産党の二党に対して、それを不可触的存在として例外的に扱っていて、対象として十分な考察と批判を加えていない。日本の政治学はもっと積極的に創価学会を研究して、学会に関する知識を国民に提供すべきだろう。創価学会研究の古典的著作が本屋にない。創価学会は日本最大の政治組織であり、同時に本来的には常に反体制に転ずる可能性を持った集団である。
その創価学会が着実に勢力を拡大している。それは身辺の地域社会の生の生活実感である。創価学会の影が次第に濃くなっている。家の外に一歩出れば、それらしき人影と足音を確実に五感で感じる。駅前の小さな書店に入ると、奥の方の棚に壮麗な「人間革命」全集が陳列してあって、学会関係の書籍のスペースは年々増えこそすれ減ってはいない。去年だったか、日本シリーズが名古屋ドームであって、試合後のヒーローインタビューの画面で、内野席二階にある聖教新聞の巨大な看板がずっと選手のバックに映されていて、テレビ局の作為を疑いながら不快感を感じたが、今年テレビを見ていたら、主たる球場の外野スタンドには殆ど聖教新聞の巨大なロゴが入っている。ジワジワと聖教新聞のエクスポージャーが上がっていて、一般市民の生活の中に入り込んでいる。実に周到なブランディング戦略をやっているように見え、それをファイナンスする大量の資金が動いている。影響力は電通社内にも浸透させているだろうし、中央省庁やテレビ局や新聞社と同じように関係者の採用枠が設けられているのに違いない。
続く。いちばん大事な話を書けなかった。次回はポスト池田の問題を中心に本論を。