不思議なのは、最近少し動きが始まった「
全野党と市民の共闘会議」などでも、改憲と戦争を阻止して日本の平和を守ることを大義として掲げながら、実際に実現をめざす政治目標が「民共社」の三党の選挙共闘であることだ。従来型の左翼市民運動の印象のみが強い。別にそれで悪いと言うつもりはないが、改憲阻止と平和維持が目的であるならば、なぜ創価学会に共闘への参加を働きかけようとしないのだろう。そのあたりに「従来型」のイマジネーションの限界を感じる。一方、「世に倦む日日」村塾の優等生の
カッシーニは、何やら早速「
はったり特急」にアプローチを始めた。微笑ましい光景である。これでよいのだ。ビスマルクの「可能性の芸術」の端緒がそこにあるだろう。74年の松本清張の創共協定には四項目があって、その三項目目は「一切の誹謗中傷を行わない」だった。これは当時もきわめて重要な案件だっただろうと思うが、事情は現在も同じなのではあるまいか。カッシーニもこの件に関わると思われる選挙中の不具合を漏らしている。
創価学会はライバルである共産党に対する敵愾心と闘争心をエネルギー源にして選挙で躍進を続けてきた歴史がある。最近はそうでもないが、両勢力が若々しく元気いっぱいだった三十年前、両勢力が地域で票を奪い合って激突するときの衝撃は凄まじく、火花が飛び散るような迫力が感じられたものだった。その伝統はそのまま継承されているだろうから、選挙となって天敵を見て目の色が変わるのはやむを得ない。だが、せめて、ネットの中で共産党系の人間が創価学会の悪口を言うのは自粛するようにしたらどうか。共産党系の者はネットの中で比較的自由に発言していて、ネットの中に影が濃い。投票数に見合う頭数の人間がネットの中に蠢いている。そこが創価学会とは違う。が、その彼らが、屡々ネット右翼と同じ口調で創価学会を誹謗中傷する言辞を吐いている場面を見かける。学会批判の軽口を叩くとき、共産党はネット右翼と協調している。ネット右翼によって同じように不可触賎民扱いされながら、同じ侮蔑を学会に向けている。
これは止めるべきではないのか。中央と中央、本部と本部は別にして、そして選挙で殴り合うのはお互い様ということにして、ネットの中では各自が松本清張の原点に立ち戻ってもよいのではないのか。ネット右翼による創価学会に対する差別的で侮蔑的な罵詈雑言に対して、それを傍観して黙認するのではなく、むしろ敢然とネット右翼に反撃して学会と共闘する姿勢を見せてもよいのではないのか。同じ不可触賎民扱いの者同士、助け合い庇い合う動きがあってもよいのではないのか。マルクス的な認識でかかる現実を対象化すれば、これはまさに被支配階級が巧妙に分断され、相互反目させられている支配の政治図そのものではないか。9条改正が目前の現実として迫っているこの時点において、共産党が創価学会に共闘を呼びかけられないのは、現在の共産党の理論とイマジネーションの貧困の証明であり、本部の政治的意欲の欠如と政治的人格の老衰の露呈である。現実の問題にクイックにフレクシブルに対応できない組織と指導者は無能であろう。
学会の初代会長の牧口常三郎は、戦中、治安維持法違反と不敬罪で特高に逮捕されて獄死している。創価学会はこれを殉教と呼んで信者に教団の原点の受難史を説いている。学会員でこの事実を知らぬ者はいないし、彼らの宗教的エトスの中核に教祖の法難の悲劇と悲憤がある。日蓮以来、この宗派において国家権力による弾圧は教義上の前提であり、迫害は宗教者たる自己の人生の所与である。学会が常に反体制に転ずる可能性はこの原点にある。牧口常三郎が信条を曲げず、神礼拒否を貫徹して獄死したのは、まさに日蓮に殉じたからである。学会の平和主義とは国家神道による思想弾圧の拒絶であり、戦前日本の軍国主義の否定に他ならない。だから学会には平和の原理主義がある。政権保持の現実主義と平和思想の原理主義。学会は矛盾する二つの要素の緊張の中にあり、カリスマがバランスを繋ぎとめている。自民党の衆院での現有議席は公明党の与党を必要としない多数であり、再来年の参院選に勝てばそれが確たるものとなる。
他宗派排撃と権力への接近は日蓮教徒の思想的遺伝子であり、それを矯正することは不可能である。だが学会の立場に立って現実の選択を考えたとき、憲法改正が実行されるときは、政権は学会を必要としていないし、憲法改正後は学会は邪魔なだけの存在である。憲法改正とは戦前日本のネイティブへの復古なのだ。自民党政権が必要なのは、国家神道を受け入れる学会であり、靖国参拝を肯定する学会であり、天敵の共産党に牙を剥き続ける学会である。いずれ創価学会は原理的な決断をしなければいけない。体制内既成宗派として国家神道の支配の下に収まるか、それとも牧口常三郎的な反逆と抵抗を選択するか。国家神道と妥協すれば日蓮教ではなくなる。日蓮には両方がある。体制につく権力志向と体制に抗する受難志向の二つがある。日蓮が勢力を拡大した宗教的魅力は受難を恐れぬ抵抗精神にあった。その遺伝子を受け継ぐ者は必ず出現する。日蓮教の生理を心得た上で、可能なるアートの政治協定(反国家神道と反新自由主義の同盟)を結べばよいのである。
創価学会の中にある内なるラディカリズムを覚醒させるのだ。