少し
前に、これからの日本の論壇でファシズム論が盛んになり、たとえば神田の三省堂本店の四階あたりにノイマンやフロムやアレントや山口定が戻って来るのではないかという予想を述べたことがある。「世界」11月号を読んでいたら、佐藤優の「民族の罠」という連載があり、それを読んで一層この思いを強くした。政治学が再びファシズム研究に挑戦しなければならない時なのだ。この号に載っていたのは「民族の罠」と称する論文の第五回で、私は過去四回までを一切読んでいないのだが、まさにファシズム論である。大学の学部の講義で言えば、ファシズム論の二回分から三回分の内容が、かなり凝縮された形で整理されて並べられている。11月号の第五回目の連載は「世界」で11ページだが、紙幅の分量に較べて企図した議論内容が大きく、研究した素材の咀嚼と自らの理論構築の間で少し窮屈になっている感も否めない。「世界」編集部は佐藤優にさらに連載の延長、すなわち紙幅増大を約束したようで、以降の展開が大いに楽しみである。
簡単に言えば、これまでファシズム論に一度も触れたことのない人は、これを読むとその輪郭が掴める。ファシズム論を正面から狙った正攻法のファシズム論であり、なかなかよく勉強しているのだ。今回の号では、定石どおりと言うべきか、ディミトロフのファシズム論への論及から始まって、加田哲ニと新明正道を使ったイタリア・ファシズム論を置き、そこで民主主義とファシズムの関係の一般論を述べ、最後にマルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』のボナパルティズム論で締めている。構成として非常によい。全体のベースセオリーとしてハーバーマスを使っているところも悪くない。私ならフロムを使うが、基本的に似たような理論構造になるだろう。ディミトロフの『反ファシズム統一戦線』とマルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』についてはブログでも紹介した。ファシズム論の基本アイテム。鈴木宗男の事件で逮捕されたあの佐藤優が、こんな知性を持った男とは思わなかった。人は表面だけを見て判断してはいけない。
外務省のラスプーチンと呼ばれた相貌異様なこの男、同志社大学神学部で一体何を勉強していたのだろう。次回は戦前の日本資本主義論争の講座派と労農派のファシズム論に踏み込むと言う。この展開の仕方もよい。講義するとすれば私も同じ内容構成になる。オーソドックスな日本の社会科学の基礎知識をレクチャーすることになる。佐藤優がどこまで巧みに切り捌けるか、お手並み拝見としよう。こういうストックを持っているかどうかが、知識人と呼べるか否かの分岐点なのだ。講座派のファシズム論を語るとすれば、当然、丸山真男のファシズム論にも目を通すことになるだろう。私がファシズム論を一冊の本にするなら、そこにさらに藤田省三の『
全体主義の時代経験』を入れる。無論、
アレントも。そうすると魅力的なファシズム研究基礎理論の一冊が纏め上がるだろう。教科書が出来上がる。問題は現在のファシズム状況を最終的にどう総括するかだが、佐藤優の議論を一見するかぎりでは、最後までハーバーマスの視角で仕上げる方針に見える。
私の場合はフロムで改革ファシズムの実相を浮かび上がらせる。それにしても、こういう具合にファシズム論が盛り上がるのは歓迎だ。本当は本業の政治学者がやらなくてはいけない仕事なのだが、ダークホースの佐藤優が嚆矢を放った。その嚆矢が実によく的を射ている。政治学者たちも、いつまでも英国の二大政党制と小選挙区制のワンパターンの話を繰り返すのではなくて、サッチャーとブレアの新自由主義革命の話でお茶濁しをしているのではなくて、佐藤優に倣ってディミトロフやマルクスをもう一度復習したらどうか。ファシズム論の視角で現実政治を分析するムーブメントを政治学の中に興さなくてはいけない。それも緊急に。今回の連載の中に「小泉政治とファシズム」という短い一節があり、小泉首相が大学3年の時に書いた作文が紹介されている。恐らく論文全体としては、もう一度、本格的に「小泉政治とファシズム」の考察と結論に立ち帰るのだろうが、選挙があり、佐藤優はどうしてもこの作文を今回の号で紹介したかったのだろう。
政治学におけるファシズム論、経済学における改革論、この二つの社会科学的アプローチによって改革ファシズムの実像が暴かれ、小泉政権と「構造改革」が相対化される。日本の知識人はその営為に取り組まなくてはいけない。英国の二大政党制の無条件礼賛は、結局のところ小泉政権の正当性を観念的に固めるだけの効果しかなく、大衆にこの現実を受け入れさせて諦めさせる方向にしか思想的に作用しない。小選挙区制の民主主義がこの国では政権とマスコミが「束」になったファシズムとして機能し、弱者嗜虐の全体主義社会が結果されている。本来正論であるはずの福祉主義が異端化され、異端化された福祉主義に社会主義だとか利権勢力の烙印を押されて屠られる新自由主義革命の全体主義。その真実を暴露しなければならない。最後に、佐藤優の文章の中で印象的であった部分をそのまま抜き書きしたいが、この文章の言葉は、まさに、私があの9月11日の夜に眠れない中で思っていたものと同じである。啓示的だ。似非ボナパルティズム論。
現下日本国民の大多数は分割地農民に似た状況に置かれている。分割地農民の利害を議会で反映できる候補者や政党が存在しない。しかし、人間には実際には自己の利害を反映していない人物にそれを反映しているとの幻影を作り出す表象能力がある。自らを代表することのできない人々は、誰かによって代表してもらわなくてはならないのである。たとえそれが自らの利害に反する人物であっても、代表してもらうことになる。
社会に利益相反がある限り、「全体の代表」はあり得ない。政党を英語で「パーティー」というのも部分の代表者だからだ。「全体の代表」は誰の利益も代表してないか、あるいは代表者個人もしくはその周辺の極小人数のグループの利益しか体現できないのである。マルクスが一五〇前に指摘した民主主義の罠が、現下日本の政治状況を分析する上で大きな示唆を与えている。 (「世界」11月号 P.141)