話題の関岡英之の『拒否できない日本』を読み始めた。ひとまず第2章まで読み終えて簡単に感想文を試みる。内容も素晴らしいが、特に印象に残ったのは文章の巧さで、非常に読みやすく、わかりやすい文章が書かれていて感心した。61年生まれの44歳。この世代の書く文章にはバラつきがある。この世代より下だと大概は苦痛を覚悟して読まなければならない。だから私などは聞いたことのない著者名だとどうしても敬遠してしまう。この人は例外で、例外たる人を発見したことの喜びは大きかった。学生時代によく本を読んで勉強をした人間でないと、こういう文章は書けないものだ。プロフィールの欄に第七回蓮如賞受賞の賞表があり、この点にも注目させられた。中身は素晴らしい。ひょっとしたら社会科学の古典になる可能性すらある。現在の日本にとって最も重要な問題視角であり、時代の真実の暴露である。精神の力業で見事に時代を持ち上げて暴露している。知性による告発。よくここまで頑張ったと拍手を送りたい。
今月号の「文藝春秋」にも「奪われる日本」の題名で号の目玉となる記事を書いている。今後暫く彼がオピニオンリーダーとして日本の論壇を引っ張ることになるだろう。ようやく出てきた待望の星。本当は、この本は岩波新書として出版されるのが適当ではなかったかと思うが、文藝春秋が関岡英之を発掘した。したがって、今後、関岡英之は文春知識人として生きて行くことになる。この力量からすれば立花隆の後継者に十分なり得るだろう。岩波書店はこういう知性の発掘の点が本当に弱いように見える。アカデミーの権威に依拠して事業を再生産する習性から離れられず、結局のところ官僚しか執筆陣に並べられない。関岡英之は岩波知識人としてデビューさせるべきだったのだ。「あとがき」のところで面白いことを書いていて、山本七平の「継受法と固有法」の歴史認識を紹介しながら自分の立ち位置を示している。そこを読むと関岡英之は「左翼的進歩史観からも右翼的皇国史観からも」独立の立場にあると言いたげだ。
これを読んで、何となく彼の中で司馬先生が意識されていると感じたのは私だけだろうか。文春知識人の中核に座る上での決意、あるいは編集部へのリップサービスのようにも思われた。「左翼的進歩史観」という否定語を使ってそれを言ってしまうと、岩波知識人にはもう戻れないだろう。これは本当に関岡英之の思想なのだろうか、それとも事業上の動機からの戦略的な演出なのだろうか。ついでながら、今月号の「世界」と「文藝春秋」はテーマが等しいものであり、すなわち米国による日本の植民地化に対する警鐘であり、論壇において自然生的に「左右共闘」の景観が出来上がっている。ネットでそれを試行錯誤している私はこの事実を寿ぐが、できれば産経新聞がこの文藝春秋と同じスタンスに立って小泉政権の売国政策を批判し、日本の米国からの経済的文化的独立を主張する論陣を張って欲しい。この文藝春秋の姿勢については、今回単発だけのものではなく、選挙期間中に田中康夫の口からも政権批判材料として発せられていた。
さて中身だが、中身を論じるとひたすら気分が重い。塞がれる。とにかく絶望的な実態の問題があり、その上に対米従属の新自由主義政権を国民が選挙で選んでしまったという問題がある。四年間はこの状況の進行を食い止められず、次の選挙を迎えるときはもっと悲惨で不可逆的な植民地の現実が目の前に出来上がっているだろうという想定がある。私は770兆円の借金の脅迫をされても、それで思考停止にはならないが、この米国の年次改革要望書のイニシアティブのインプリケーションと言うか、日本改造の問題についてはどうしようもない終末的な絶望感を持っている。関岡英之は「あとがき」にこう書いている。
「問題は、アメリカの要求に従ってきた結果どうなったのか、その利害得失を、自国の利益に照らしてきちんと検証するシステムがないことだ。そしてそれ以上に問題なのは、もしわたしたち日本人にはアメリカの要求に従う以外に選択肢が無いならば、なぜそのような構造になっているのか、という点である」(P.224)
ここで私が簡単に答えを言おう。それは官僚を筆頭にした日本のエリートが、没落する日本の泥船を見捨てて、サバイバルのためにノアの箱舟に逃げたということである。英語エリートとなり、英語エリートだけが生き延びられるシステムに主体的に参加したのだ。彼らは日本は沈没するという確たる認識を持っている。それは強固な世界観(信仰)である。没落する日本の泥船から逃げて、米国が日本を植民地支配するシステムを受け入れて、植民地官僚として生き延びる人生の選択をしたのだ。それが新自由主義の生き方であり、それが「勝ち組」の真相である。没落する日本経済と没落する日本国民から、最後の生き血を吸い取って、自分だけは何とか生き延びる。米国資本が日本を収奪するお零れに授かる。日本人ではなく準米国人になる。それが動機である。今は英語ができない日本人は仕事の機会がない。国際会議に出れないし得意先と話ができない。その現実に働き盛りの三十代が直面したとき、個々人の選択はどうしてもそうなる。
根本的な自己不信としての日本不信。その中での人生の選択、祖国日本への決別と裏切り。エリートの中から関岡英之が出現して「暴露」を始めた奇跡に感激する。