関岡英之の『拒否できない日本』を読みながら、いろいろなものが走馬灯のように頭の中を駆けめぐる。それらを一つ一つ整理して構造的に論理化し、本格的に対象化したいのだけれど、なかなかそれができない。能力の問題もあるが、それ以上に、駆けめぐっている中身が、その中心にあるのが自分自身の実体験そのものだからだ。米国のイニシアティブによる日本改造の現場に身を置いていた人、現在も身を置いている人は多いだろう。アクセス解析が微かに伝えるブログ読者のプロフィール情報は、私にそのことを確実に連想させる。「世に倦む日日」読者はエリートが多い。エリートであればあるほど、90年代後半から現在までの十年間は、米国のイニシアティブ活動と関わり、イニシアティブにお付き合いしてきた十年間であるはずだ。この問題を考え始めると疲れて溜息が出る。それは陰謀とか謀略とか言う前に、個々人にとってシステムなのだ。生きて行こうとすれば身を関与させざるを得ぬ(生活に直結する)システムなのである。
頭をよぎる幾つかを無造作に挙げると、まず第一に映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の一場面がある。二作目あたりの話だったと思うが、タイムマシンを分解していたドクが半導体チップを取り出し「見たことのない名前だな」と言うと、未来から来たマーティが「半導体は全部日本のメーカーが作っているんだよ」と言う件(くだり)がある。富士通だったか。うろ覚えだが、そんな会話があった。あの頃はそういう場面が挿入された映画が多かった。東芝のラジカセをドラム缶 の上に置いて何人かの米国人がハンマーで野蛮に叩き壊す映像も印象深い。父ブッシュが日本に来て晩餐会の席上で宮沢喜一の膝に嘔吐した場面も続けざまに思い出した。米国が最悪の時だった。ソニーがコロンビアを買収した時の「ニューズ・ウィーク」の表紙も頭に浮かんだ。三菱地所がロックフェラーセンターを買収した事件もあった。80年代末から90年代初頭、バブルの頃の話だが、イニシアティブで征服された現在と180度逆の現実がある。奪われる米国。
頭に浮かんだ最後のものは、石原慎太郎と盛田昭夫の『Noと言える日本』で、今回の関岡英之の『拒否できない日本』のタイトルはこの題名を意識したものではないかと勘ぐるのは考えすぎだろうか。『Noと言える日本』は89年の著作だが、石原慎太郎には98年の『宣戦布告-Noと言える日本経済』という著作もあった。副題は「アメリカの金融奴隷からの解放」。山一証券が倒産して金融危機の真っ最中、クリントン政権で復活した米国が特に金融(ドル)を使ったイニシアティブ戦略を全世界で展開して、巻き添えを食ったタイ経済(バーツ)と韓国経済(ウォン)が崩壊の危機に瀕する事態があった。あのとき少し不思議に思ったことだが、タイも韓国も欧米による植民地支配の経験がない。国内で基本的に英語が使えない。そういう事と何か関係があったのだろうか。アジア経済の米国金融資本支配からの独立を唱えていたマハティールのマレーシアが狙い打ちにされるのではないかと案じたが、それはなかった。マレーシアは英語を使う。
あの頃、私は石原慎太郎のナショナリズムに魅力を感じていた一人だった。仕事の昼休みに石原慎太郎の知事選の演説を聴いたこともある。中国を「シナ」呼ばわりして卑蔑する反動的な態度には我慢ならなかったが、対米独立の過激な主張には共感するところが大いにあった。著書『国家なる幻影』はなかなかの作品で、さすがに芥川賞作家だと唸らされたが、そこでも例の次期主力戦闘機の開発仕様策定問題についての持論が述べられていた。横田基地返還を掲げた選挙公約にも好感が持てた。当時の石原慎太郎は対米独立ナショナリズムのシンボルだった。ところが都知事になって二年目からは、それまでの憂国の士の反米言論はすっかり影を潜め、口を開けば反中反共一色の腐った極右イデオローグと成り下がり、これ見よがしに下劣な暴言を吐いて世上を騒がせる唾棄すべき匹夫となった。都政の政策は例によって財政再建を口実とした福祉破壊の新自由主義路線で、その後の横浜市政や小泉構造改革の嚆矢となった。
似非ボナパルティズムは小泉純一郎の前に石原慎太郎のモデルがある。石原慎太郎の反米はただのポーズで、票取り目的の詐術だったのだろうか。信じられないのは、そうして石原慎太郎が憂国の士の仮面を脱ぎ捨てて、極右反動の新自由主義者としての正体を露わにした後でも、この国で最も民度が高いと思われた東京都民が、二期目の選挙で石原慎太郎に史上最多の得票率を与えたことである。そういうこともあって、世紀が変わってからの私は、政治に絶望して、政治のことを考えるのをやめていた。菩薩や観音の姿と心を求めて奈良盆地を旅歩く人間になっていた。関岡英之の「あとがき」が気になったのは、まさか今の反米憂国が事業上のプロモーションで、堂々たる文春知識人になった途端に、火を噴くような反中プロパガンダをやったり、靖国礼賛をやったりするのではないかと不安を感じたからである。あの頃の石原慎太郎も全く同じ質の議論を文藝春秋を拠点にして展開していた。関岡英之には石原慎太郎のようになって欲しくない。
そういえば、ニューヨーク市立大学の霍見芳浩はどうしたのだ。