イニシアティブの日本改造の問題というのは、個々人のレベルでは英語のシステムに参加するかどうかという問題につきる。現在の日本では知識や教養はなくても多少の英語の会話能力があれば年収一千万円の職に就くことが可能であり、すなわち、「勝ち組」と「負け組」の分岐はシンプルに英会話のスキルという問題に収斂するはずだ。米国がわずか十年の時間で日本を植民地化できたのは、米国に高度な産業技術があったからではなく、標準言語としての英語と標準通貨としてのドルを持っていたからである。英語とドルの二つが武器であり、この二つの武器で米国は16世紀のピサロのようにやすやすと日本の富を奪い取った。自身の成功と保身のためにイニシアティブに協力し、日本の産業の解体と国富の盗奪に手を貸した英語エリートたちは、関岡英之を読んで何を思っているだろうか。現在も積極果敢に売国に
手を貸している前原誠司や長島明久は何を思っているのだろうか。今の日本はアヘン戦争に負けた後の清と同じだ。
日本人は中学高校と六年間も英語を勉強するのに、なぜ英語が話せないのだろうか。この問題はよく言われる難問だが、どうも突き詰めて考えて行くと、英語を使わなくても日本語だけで国民が先進国の国民として生活できる先進国に日本を一生懸命に作り上げてきたのが、明治以来のわが国の官民の努力だったのではなかったかという発見に到達して、私は素朴に感動と興奮を覚える。独立国というのは国民が母国語で生産と生活を不自由なく完結できる国のことを言うのだろう。他国語を使うことなく、ここまでの経済水準を達成している日本は立派だと思うし、アジアの一国でありながら、その幸福な環境を国民に与え得た近代日本は偉大である。無論、人が何人として生きるかは個人の選択の自由だが、万葉集や源氏物語を古典として仰いで文学的な感性や精神を形作るわれわれは、それをできない国々の人々より幸福だと感じてよいのではないか。分裂や中断のない歴史年表を持てることを幸福と感じてよいのではないか。
森有礼は森有礼で、Education in Japan という、有名な本があります。(中略) この序文で、英語を国語にしろという有名な議論を展開したのです。大和言葉というのは抽象語がないから、大和言葉に頼っていたのでは、とても西洋文明を日本のものにすることができない。それで、この機会にいっそ英語を採用しろという議論です。それに対する反駁がこの馬場の序文なのです。この序文は非常におもしろい。もし、日本で英語を採用したらどうなるか、上流階級と下層階級ではまったく言葉がちがってしまうだろう、という意見を述べた。(中略) 森みたいに英語を国語にしろという議論も、さっき加藤さんがいったような時代だから、非常におもしろい。馬場は、言葉がちがってしまえば一つの国をなさないだけはなくて、下層階級の多くは国事の重大問題から締め出されるだろう、という危惧を述べた。つまり、英語をものにするのは大変だから、一般大衆とエリートと言葉が二つできて、重要なことがみんな英語で処理されることになれば、英語をしゃべるエリートだけが国事をやることになってしまって、大衆は国事から疎外されるだろう、と言う。そういう長い序文があるのです。 (岩波新書 『翻訳と日本の近代』 P.44-46)
上は丸山真男と加藤周一の対談『翻訳と日本の近代』で丸山真男が語っている部分だが、明治政府が翻訳主義を採り、普通教育を国語(日本語)で統一する方針を固めた歴史的事情に触れている。明六社の一人であった森有礼は普通教育に英語を採用すべきであると主張した。森有礼の方針が採用されていれば、今日のわれわれの英語の苦労はないのだが、果たして今日の日本の国際的地位や国民の生活水準は達成されていたか。だが時代は変転して、現在は明治国家の思想や方針がデフォルトでは否定される脱構築(ポストモダン)の時代になり、翻訳主義と原書主義のバランスの問題も従来とは全く異なる様相を呈し始めた。外国の書物を翻訳して日本の知識世界に紹介する権威の存在が否定され、原書の解釈が「万人の万人に対する闘争」の状況となり、中身の理解や議論の以前に、語訳の段階で立ち往生させている状態にある。それがシステムとして固まってしまえば、若い研究者はシステムに参加する以外にない。
しかし、上の馬場辰猪の視角は今日の日本をそのまま照射していて、馬場辰猪の懸念どおりの日本になっているではないか。ブログ読者の皆様のお仕事の環境を思って欲しい。机の上のドキュメントの何割が英語になっているだろうか。メールの何十パーセントが英語になっているだろうか。仕事の中で英語の文書やメールの方が、事業の売上や利益に直結するものとして日本語のものより重要度が高いはずだ。会議も同じで、日本語だけの会議より英語を使った会議の方が組織の中で重要度がはるかに高いはずだ。現在もすでにそうだし、趨勢としてはさらにそうだが、会社での言語は基本的に英語がメインになり日本語はサブになる。日本語で完結できるのは昼休みの時間だけとなる。19世紀のアジア諸国でのエリートの体験が二世紀遅れで日本人のホワイトカラーの日常となるのだ。日本において日本語は生活言語となり、生産言語ではなくなる。これまで累々と築き上げてきた日本語の高度で豊穣な生産と文化の体系が無駄になる。
どうすればいいのか私にはよく分からない。小学生に英語を教えるのが正しいのかどうかよく分からない。回答に逡巡する。『翻訳と日本の近代』を読んでくれと紹介することだけができる。溜息と呻き声しか出ない。憤怒と鬱懐で身が震える。自分ではどうしようもない問題に、誰かカリスマが登場して、一気に問題を解決してくれたらと思うばかりだ。米国経済が簡単に没落しない理由は何となく分かった。ドルは世界の基軸通貨であり続ける。東アジア共通通貨を作らない限り。英語が国際標準語の地位を失う図はあり得ない。金(Auという金属)が歴史的に唯一の貨幣となったのと同じ。金と人類の関係が英国語と人類の関係だ。英語をドルではなく
バンコールのような存在に変えてくれるカリスマは登場するのだろうか。司馬遼太郎が生きていてくれたら。司馬遼太郎はもう死んだ。丸山真男が生きていてくれたら。丸山真男はもう死んだ。何もない宇宙の月面のような地上で私は生きている。自分がどうやって生きているのかさえ不思議な感じで。