最近のネットの
議論の関心は、すっかり女系天皇問題に集中しているようである。この領域がどちらかと言えば私の専門範囲に近かったため、拍子で偶然に議論の中に割り込んだ感があるが、恐らくこれからの「正論」や「諸君」は、関岡英之的なイニシアティブ改造に対する告発の問題意識と並んで、この女系天皇問題が論壇の中心を構成して行くように思われる。念のため『国民の歴史』を読み返して、西尾幹ニが万世一系をどのように処理しているか確認を試みたが、やはり思ったとおり皇国史観の核心たるその問題には触れていなかった。西尾幹ニ的な論法を予想するなら、二千六百年の時間が事実かどうか、万世一系が本当の事実かどうかが問題ではなく、科学的事実か否かの問題ではなく、それを「事実」として古代以来の日本人が信じてきたこと、すなわち物語の受容継承の観念的事実の歴史こそが重要なのだという主張になる。この主張はとりあえず議論として聞くことはできるが、最近のネットではそれを超えて、二千六百年の万世一系を事実そのものだと主張している者が多い。
天地万物は神が創造したのだと固く信じているキリスト教徒の信仰は理解できる。が、同じ信仰を持てと言われても容易に応じられないし、歴史教科書に万物の創造主は神であると記述することはできない。天孫降臨と神武東征と皇紀二千六百年の「歴史認識」も、別に古代以来の日本人の全てが神話を事実だと認識していたわけではなくて、多くの日本人は「へえさいでっか」と受け流していたに違いない。簡単に受け流せなくなったのは明治国家の教育勅語の頃からであり、昭和に至ってそれを疑う言論が国家によって思想犯罪とされ、禁止取締の対象になっただけである。神話は史実ではないという当然の主張は、何も戦後の歴史学が言い出したものではなく、津田左右吉はそのために右翼の迫害と官憲の弾圧を受けて大学を追われた。信仰は自由であり、他人の信条に立ち入るつもりはないが、言うところの皇紀二千六百年と万世一系が虚構である由縁は、歴代天皇の生没年表を一瞥するだけで容易に判断できる事柄で、虚構の神話だという認識こそが歴史的に一般的だっただろう。
神武126歳、孝昭113歳、孝安136歳と異常な長寿者が続く皇祖皇宗の系譜を、史実であるから信用しろとわが子に説得した親はいるまい。これこそがまさに事実である。津田左右吉に言われるまでもなく、王朝が作為して編纂したプリミティブなフィクションであり、すなわち聖書の天地創造と同じであり、イサナギ・イサナミニ神の媾合と列島生産に続く物語であり、不比等や編纂者がその信憑性の説得力を後世の日本人に期待したとは思えない。神話は神話として正しく読む必要があり、神話の中にどのような歴史的真実が寓意的に仮託され投影されているかが重要なのである。が、現在の古代史学では万世一系の虚構を根本的に解体する研究がすでに提出されている。手元に教育社新書の水野祐『大和の政権』があるが、それによると、始祖を崇神天皇とする古王朝、仁徳天皇から始まる中王朝、継体天皇から現在まで繋がる新王朝の三王朝があり、三王朝は全く血統を異にしていて、崇神王朝と仁徳王朝の二つは血統が断絶している。万世一系を頑なに信仰する右翼にとっては衝撃の研究だろう。
特に武烈天皇(25代)と継体天皇(26代)の血統断絶と王朝交替についての説明が説得的で、日本書記に描かれた
武烈天皇の残虐行為の数々は、武烈天皇を比類なき暴君に仕立てるたための作為的な記述であり、これは中国の易姓革命の思想が投影されたもので、徳の無い武烈天皇の代で仁徳天皇始祖の中王朝が滅び、新王朝を建てた継体天皇の擁立が正当化されていると指摘するのである。
「越前から迎えられた新王朝の天皇が、継体天皇といわれたのは、この天皇から、前王朝と血統が異なるということを、奈良時代の有識者が明確に知っていたことを示している。継体天皇の「継」という字は、後を継承するのではあっても、血統を同じくしてつぐ「嗣子」という場合の「嗣」字とは異なり、血統的つながりがなくて継承する時、すなわち「継子」・「継母」と同じ意味の「継」字である。「継体」という漢風諡号を定めたことは、この天皇が。それ以前の天皇と、全く血統的つながりがなかったという認識が古くは明確にもたれていたことを示しているのである。(教育社歴史新書 『大和の政権』 P.155-156)
非常に面白い。現在の皇室の血統が六世紀の継体天皇から始まっているとすると、一系の皇紀は二千六百年ではなく三分の二の千五百年ほどになる。武烈と継体の間の血統断絶、そして王朝交替説は、他に
遠山美都男などの古代史学者の支持があり、またさらに考古学者の森浩一も古墳からの出土品の調査研究によって継体天皇からの王朝交替を根拠づけていて、古代史学の世界ではすでに有力な説となっていると言ってよいだろう。私は考古学の知識はないが、水野祐の武烈天皇論(継体王朝を正当化するための暴君演出-日本書記への中国の易姓革命思想の混入)の議論には大いなる説得力を感じる。つまり武烈天皇は殷の紂王に擬されたわけだ。それでは中公文庫の『
日本の歴史1』(井上光貞)はどうだろうかと調べたが、王朝交替の議論こそなかったものの、崇神天皇(10代)から上の天皇はすべて架空の人物という結論が示されていた。今回の問題と関連するが、神武から9代までの天皇はピカピカの父子相続の継承なのである。崇神天皇から後が皇位継承が複雑で、傍系相続と長子相続と末子相続と女性天皇が混合する。
本居宣長は、古代の日本では「日嗣の御子」は三人とか複数いるのが常態で、皇位継承に中国の皇太子制のような原則はなかったと言っている。本居宣長がいれば今回の有識者会議答申を支持するのではないか。