Y染色体論のナンセンスについては、立花隆が最近の
論稿で喝破したとおりで、あの累乗増殖の簡易計算の説得力に特に補足するものはない。私がY染色体論を聞いたときに感じたのはもう少し別の低俗な関心方向のもので、普通の人間なら遺伝子の連続の奇跡を確信するよりも、むしろその断絶の確率の方に納得するのではないかという事だった。ところで平沼赳夫を会長とする超党派の保守系議員でつくる「日本会議国会議員懇談会」が政府に提出した「女系天皇を容認する皇室典範改正案の次期通常国会への提出を目指す政府に慎重な対応を求める決議文」では、「
男系によって継承されてきた皇位の継承方法を今直ちに変更することは慎重に検討されるべきだ。短期審議で千数百年にわたる継承方式の変更を決定することは、拙速と言わざるを得ない」と言っている。男系天皇の継承期間を千数百年と表現していて、皇紀二千六百年の皇国史観の強調高唱を遠慮している。戦後歴史学と古代史研究の常識に配慮して妥協を示しているところが面白い。
が、最近の
古代史学に従って、現在の皇室が継体天皇を始祖とする新王朝から千五百年間続くものであったとしても、百代にわたる長い生殖反復の間で、生物学的遺伝的意味での血統が一度も切断していないと人は本当に信じられるだろうか。特に男系の血統連続というのは、百回の生殖経緯において生まれた子が確実にその父親の実子であるという事実が存在するという意味であろう。子の母親は存在を疑えない。だが父親が確実に(法的意味ではなく生物学的意味で)その子の父親であったかどうかは疑い得る。ましてそれが百代の生殖継承であるならば、どこかで血の切断があっただろうと怪しむのは人の道理ではないだろうか。私が言いたいのは、皇后の誰かが不倫したのではないかという邪推だけでなく、それ以上に、皇太子を産まねばならぬ立場を負った女がいて、それが中宮であれ更衣であれ女御であれ、天皇の生殖機能に不全があった場合には、どこからか偽胤を仕込んで責務を果たしたという秘史があったのではないかという想像である。
近世を描いた大奥のドラマでも上の生殖問題はライトモティーフの一つである。女の個人の意思とは無関係に、世継ぎの懐妊と出産を既成事実化したい政治勢力が常にいて、局内の婦女は政治上の駒であり、政治の必要から迫られて謀計に関与する役目を担わされたというケースは十分に想像できる。まして近世ではなく古代となれば、その傾向は茫漠として甚だしさを増す感があるが、科学的検証の前提や余地のない古代における父と子の血縁認証の程度は果たしてどうだったのであろうか。私をそうした不謹慎な想像に導く材料のひとつは紫式部の源氏物語で、源氏物語は基本的に不倫の因果応報の物語である。父である桐壺帝が寵愛した藤壺女御と密通した光源氏は、後に正室である女三の宮に裏切られ、柏木と女三の宮との間に生まれた薫をわが子として腕の中で抱くという運命の復讐を受ける。自らの過去の罪業に思い悩む。源氏物語の後半、宇治十帖は悲愴で憂鬱な雰囲気が漂って重い。血(生殖)の原罪と宿命が登場人物を破滅に追いやってゆく。
藤壺と光源氏の不義の子は物語の中では冷泉帝として即位している。源氏は桐壺帝の実子であるからY染色体の観点からは問題ないのかも知れないが、もし光源氏自身が帝位に就いていたと仮定するならば、正室との「子」である薫は皇太子であり、皇太子の真の父は柏木であり、柏木の父は左大臣の子の頭中将で、遺伝子複製の生物学的観点から考えれば、この皇位継承は深刻な不具合が生じるのではないだろうか。血統断絶と言ってよいのではないか。無論、光源氏は遂に天皇にはならず、源氏物語の中でY染色体が危機に曝される局面はないが、平安朝の宮廷でも、また時代が下がって室町江戸期においても、源氏物語が古典として宮中で愛読され続けたことを考えると、皇族や貴族の間での遺伝子の複製と継承が、それほど(右翼が肩を怒らせて言うほど)クリーンルーム的な環境で厳正に実行検証されていたとは考えにくいのである。遺伝子の絶対性に対して右翼的に厳格であらんとすれば、源氏物語は思想的に禁断の書物となるはずだ。
万世一系の血の正統を神聖視する立場からは源氏物語は危険思想である。私の想像だが、大陸に比べて生殖禁忌観念が弛緩的で、南方的な妻問い婚と夜這い風習の残っていた日本では、特に古代の人間は、自分の父親が誰であるかについて個人が思い悩むという場面が相当に多かったのではないだろうか。そしてこれも想像だが、逆にそうした遺伝子複製の非厳正さ、ルーズさこそが、万世一系の皇統の切断に至らなかった真の秘密だったのではないかと思われてならない。でなければ、桐壺帝の寵愛を連夜受けているはずの藤壺の閨房に、男子である源氏が何故にやすやすと侵入できるのであろうか。どうしてそのような想定が可能だったのだろうか。それが日常茶飯であったとは言わないが、もしも根本的に現実性を欠く荒唐無稽なドラマ設定であったなら、源氏物語は当時の宮中で人気を博し得なかったはずである。皇族の不義の因果応報の物語がリアリティがあったからこそ普遍的に愛読されたのではないか。目を吊り上げてY染色体の神聖継承を主張されている方々には不興な話だが、私がY染色体論について思ったのはそのような淫猥な想像だった。