女系天皇に反対している女です。私は宮尾さんの小説は好きですが、この「古代や中世の日本の女性に名前がなかった」というのは歴史に対する無知からくるものかと思います。古代や中世の日本の女性の名前が残っていないのは名前がなかったからではなくて、名前をあきらかにすることで「言霊」により呪いなどを受けることを恐れたからです。古代へ行く程身内や結婚を許した相手にしか名前を教えていません。それゆえ、名を聞くことがプロポーズになったわけです。万葉集の巻頭の雄略天皇の御歌 - 籠もよ み籠持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に 菜摘ます子 家告らせ 名告らさね - 国母、皇后などになって系図に載せられた女性はちゃんと名前が残っています。しかし、朝鮮に行くと李氏朝鮮の時代でも女性には名前がなかったそうです。日本の女性の名前が残っていないのを朝鮮と同じような理由だと考えられては迷惑ですね。
今回は上のような投稿を頂戴した。一読して問題が多い。無知と偏見に基づく幼稚でイデオロギッシュな主張である。偉大な作家である宮尾登美子に対して「歴史に無知」だと言い退けるのはずいぶん豪快な批判の仕方だと思うが、宮尾登美子が言っている平家物語の女の登場人物に名前が無いというのは、彼女たちが(実生活で)実際に名前がなかったという意味ではなくて、平家物語の中で名前が付されていない、名前が残されていないという意味だろう。書き残されたものの中に名前が与えられていないのである。親から生まれて育てられた以上、幼名ならば誰でも持っている。紫式部も本名ではない。本名を持っていたという学説も出されているが、記録に残される場合の正式名は単に「藤原為時の女」になってしまうはずだ。古代日本の女の名前の問題について立ち入って議論するほどの専門的知識を私は持っていないが、私の想像ではこの場合の古代の女の名前は、現代で言えば、殆どシロとかポチとかと同じ内実の呼び名だったのではないかと思われてならない。
宮崎駿の『千と千尋の神隠し』でも名前の問題が重要な問題として出てくる。千尋と千では意味が違う。名前が正当に付されて文書に記録されるということは、社会の中で正当に名誉と権利が認められた一個の人格であるという意味だろう。記録に名前が残されない、記録に残す名前が最初から与えられない、期待されないということは、社会の中で一個の人格として認められてないということであり、人格の存在価値が社会的に前提されてないという事実を意味する。独立した人格として記憶にとどめられる必要がなく、その能力や実績や貢献が最初から社会的に不必要なものとして無視されているということである。紫式部の例で言えば、紫式部の人間としての存在は、単に藤原為時の家の内部と周辺だけで完結されればよいもので、その中で生きて死んで狭い関係者の記憶に残ればよいだけで、公的な人格が前提されておらず、社会的な業績など最初から想定されてないのである。藤原為時は貴族だが、その娘の紫式部は、存在としては藤原為時の家のシロとかポチと変わりないのだ。
古代の日本の女たちは生没年不明で、どれほど活躍しても墓もなく、人知れず寂しく消えるように死んでゆく。小野小町もそうだし、清少納言もそうだ。名誉を持つ人格として認められていない。古代の女に名前がないという問題は、実は日本だけではない。昨年読んだ『ダ・ヴィンチ・コード』にも
同じ問題が指摘されていて、私も初めて知ったが、イエスの母マリアも、それが彼女の本名でも正式名でもなく、マリアは単に当時の女というだけの意味しかないという事実が紹介されていた。だからイエスの母マリアの他にマグダラのマリアが登場するのである。名前が無いのだ。男は名前を持ち、名前が業績とともに記録に残され、後世の人々に語り伝えられる。女は名前を持たされず、生没年不明の人生を与えられる。牛や馬と同じ。古代というのは洋の東西を問わずそういう世界である。中世になればヨーロッパはさらに悲惨で、魔女狩りの受難に遭って大量の無実の女が残酷な焚刑に処された。『ダ・ヴィンチ・コード』を読むとよい。キリスト教世界の男尊女卑の苛烈さと性の抑圧がわかる。
この雄略天皇の歌は私も高等学校の古文の時間で習ったが、「言霊により呪いを受けるから」女が名前を公にしなかったという説は初めて聞いた。右翼史家の井沢元彦あたりの説だろうか。私が授業で聞いた中身は、女が名前を家(家父長制大家族)の者以外の男に教えるときは求愛を受諾して男のものになるという意味であり、すなわち娘が所属する家の外部の者は(求愛以外は)娘の名前を知る必要もなく、関心もなく、聞く意味も無かったということだったと思う。他人の家の犬の名前などシロだろうがポチだろうがどうでもいい。私がここで投稿者の当人に言いたいのは、なぜ名前を公開公言することで「言霊により呪いを受ける」のが女だけなのかという問題を疑問として考えないのかということだ。もしこの慣習や観念が古代の一般的事実であったとすれば、これが男性が女性を支配するためのイデオロギー(虚偽意識)ではないかという疑いを持たないのかということだ。なぜ男は名前を公言しても言霊の呪いを受けないのか。なぜ女だけが言霊の呪いを受ける対象でなければならないのか。
今回は詳細を割愛するが、女性が男性の所有物(家父長の家内奴隷)になったのは古代中国も古代朝鮮も古代日本も同じである。儒教のシステムがそれを必然化させた。古代日本が儒教の高度文明を導入して古代国家が完成するときに女は男の事実上の奴隷になるのである。言霊の呪いの話は、真相は少し違うが、実は男も同じであり、他人に自分の名前を正確に読まれて発音されることを古代人は忌み嫌った。だから男も難しい(一読して読み上げにくい)漢字で名前を付けたと言われている(藤原維畿、藤原伊周、藤原佐理、藤原公任)。男同士でも官職名等で呼び合っていて、決して本名をズバリと読み上げたりはしていない。だから、言霊呪悪説は女の名前だけが文書に記録されなかったことの理由にはならない。