キャバーンクラブが防衛庁前から芋洗坂の方に移ったのは、ちょうどバブルのピークを迎えた頃だった。最初にキャバーンクラブを訪れた当時、全国にまだこの店一軒だけしかなかったと思うが、その後、全国各地に同じような店ができた。芋洗坂に引っ越して店の内装がすっかり変わってしまい、がっかりした記憶がある。防衛庁前の店は、中が
リバプールのオリジナルの雰囲気をよく醸し出していた。椅子は長く座っていると腰が痛くなるような硬い木で、テーブルもシンプルで、私はリバプールには行ったことはないけれど、ロンドンの地下のパブで見たものと同じだった。キャバーンクラブはいつも混んでいて、早く行かないと席に座れず、入店するのに一時間くらい待たされたから、常連になってからは開店前に店の入口で並ぶようになっていた。12月8日には必ず行っていて、午後6時頃に店の前に着いて暫くコートのまま立ち並んで、他の客と一緒に「スタンド・バイ・ミー」を歌って時間を潰したことを思い出す。金曜日の夜は開店と同時に入り、閉店する朝の5時までずっと店の中にいた。
ビートルズが好きだったから足しげく通ったというよりも、この店のバンドが特にお気に入りだったのだ。今では伝説となっているLadyBugというバンドがこの店のメインであり、週に三回か四回はこのバンドが演奏を担当していた。LadyBugは
チャック近藤というリーダーが率いていたグループで、この男が抜群に歌が上手く、この男のボーカルに合わせて曲を歌うのが楽しかったのだ。今まで多くのコピーバンドを見てきたけれど、チャックのボーカルに敵う者は一人もいない。今から考えればありがたい事で、自分が毎週のように通い詰めていた理由もよく分かる。一度店に入ると、平日なら終電の時間まで帰ることができず、金曜なら翌朝の閉店まで店を出ることができなかった。ラストステージの盛り上がった時間になると、「抱きしめたい」や「シー・ラブズ・ユー」が続けて演奏され、そうなると店の中の外人たちが立ち上がってダンスを始め、雰囲気は最高潮に達した。この店には外人観光客が本当に多かった。それも、来店は初回でありながら店の事情に通じた外人の観光客が多かった。
きっとこの店が有名で、旅行ガイドブックに載っていたか、あるいはツアーコンダクターが贔屓にしていて、団体客を連れ込んで来ていたに違いない。日本人が帰る終電後の時間に狙ったように入って来て、クライマックス・タイムに踊って盛り上がっていた。実はその時間までは立って踊ってはいけない規則だったのである。彼らはまるで常連客のように店の内情を承知していた。チャックの歌はバラードもロックンロールも全部よかった。ステージは全部で六回ほどあって、二時間毎に一回、各四十分ほどの演奏だったように記憶している。一回のステージで六曲か七曲ほどライブ演奏があり、だから開店から閉店まで粘ればビートルズナンバーを四十曲聴けるという勘定だった。スタンダードの「レット・イット・ビー」や「ヘイ・ジュード」もサービスしてくれていたが、チャックが特に好きなのは「ユア・マザー・シュッド・ノウ」と「レディ・マドンナ」で、この二曲が入らなかった日は無かったように覚えている。私は常連で、ステージに一番近い席にいつも座っていて、何度かは一人だけで入って聴いていた。
入り口に近いところにカウンター席があり、演奏と演奏の間にメンバーはそこに座ってドリンクを飲んでいて、ファンの若い女が必ず横に侍っていた。顔を覚えられるほどよく行ったので、チャックに声をかけられて話をしたこともある。気さくないい感じの男だった。ステージでは圧倒的なカリスマだったが、話をすると真面目でシャイでいい感じで、私はますます彼が好きになった。店が芋洗坂に移ると同時に、解散したのかLadyBugも出演しなくなり、数年間続いた私のキャバーンクラブ通いもそこで終わった。その後ずっとして、チャックはビートルズのコード進行について論じた本を出版していて、ラジオ番組にも顔を出す人気者になっていた。チャックが言った言葉を忘れられないが、彼によると「ジョンの曲はビートルズ時代のものが最高で、解散後の曲はあまりよくない」のだそうだ。キャバーンクラブで迎えた最初の12月8日の夜に、私がメモでリクエストした「ダブル・ファンタジー」の何曲かのタイトルを読み上げながら、彼は私に向かってそう言った。そうだろうかと幾度も反芻した言葉である。
二十五年前の12月8日、世界は凍てつき悲しみに沈んだ。私はあの日をよく覚えている。一報を聞いたのは夜明けのラジオのニュースで、その日はどんよりと曇った底冷えのする寒い冬の一日だった。一報に接した若い私の衝撃は何とも言えないもので、「犬死しやがって馬鹿たれが」という感じだった。復活のアルバム「ダブル・ファンタジー」の出来がよくて、シングル二曲目の「ウーマン」のクリップがテレビで流され、いい感じの大人になったジョンの映像がわれわれを喜ばせていた。その映像はハウス・ハズバンドという言葉と一緒に日本に紹介されて、その何年前かの米国でのジョンの素行不良の噂とか、長い沈黙を心配していたわれわれは、心を取り直して彼の復活を祝福していたのだ。ヨーコはすっかりビジネスマンになっていた。ジョンも大人になった。自分も大人になる。八十年代という時代が始まる。再出発の矢先の悲劇だった。ジョンを置き去りにして八十年代が始まり、それは確かにジョンのいない魂の抜け殻のような時代であり、そこから四半世紀が一気に過ぎた。二十五年間、機会ある毎に私はそのときを振り返り続けている。
できればジョンと一緒に時代を過ごしたかった。追憶の中で世に倦みながら年をとる。底冷えのする時代の中で若さを失ってゆく。凍てついた時代の底に沈んで、蹲(うずくま)り込んで、心を塞ぎ、希望を失ってゆく。目の前の空気の重さを感じながら、身も心も凍え固まってゆく。できればジョンと一緒に時代を過ごしたかった。そう言う自分の言葉が、年を追うほどに軽さと弾力感を失って、絶望と諦観と感傷の度を深めてゆく。