一報が入ったその日、何故だかわからないが自然に仲間同士で集まり合っていた。「おい、ニュース聞いたか、今からそっちへ行くから」という感じで、二人三人と寄り集まって、肩を寄せ合うような具合になっていた。ネットもない時代で、情報交換というほど各自が多くの情報を入手していたわけでもなく、ただジョンが死んだという大きな衝撃を受けた日に、一人でジッと動揺と向かい合って時間を過ごすことはできなかったのだ。一緒に話し合う仲間が必要だった。みんな若くて、何でも話し合える仲間で、そしてジョンが好きな男ばかりだったから。その頃の若い日本人というのはそういう人間たちだった。われわれの世代の精神のカーネルには間違いなくジョンレノンの作品と思想がある。カーネルには阿久悠の影響もある。手塚治虫もある。梶原一騎と小池一雄もある。だがジョンレノンの影響が決定的だということは、他の影響者たち以上に躊躇なく名前を挙げられるに違いない。
ジョンレノンは死んだから聖人になった。あの死がなければここまでの聖人にはならなかった。チェゲバラと同じだ。ジョンを聖人にしたのはヨーコである。聖化されたジョンのイメージを固めて行ったのはヨーコで、ヨーコはその方面で抜群のセンスがあったし、何よりジョンレノンを解釈して説明できる唯一者であり、ジョンレノンに最も近い存在だったからそれができた。男は女によって聖人になる。男は自分を聖人にしてくれる女を妻にしなければならない。その最高の成功例が、私の知る限りではマックスウェーバーとマリアンネウェーバーで、ひょっとしたらマリアンネは夫よりも学問的に上だったのではないかとさえ言われている。マリアンネがいなければ、ウェーバーのイメージは現在とは著しく異なっていただろう。果たしてマルクスと並ぶ社会科学の二大聖人の一人になれていたかどうか。女は愛した男を聖人にする。ヨーコはジョンを聖人にして、自分も準聖人となった。
ヨーコも偉大な思想家なのである。ヨーコこそ偉大な思想家と言うべきだろう。ヨーコと出会えなければジョンはあのような歴史的偉人にはなれなかった。ただの天才音楽家の人生で終わっていた。生前もそうだったが、自分を聖人にしてくれたヨーコにジョンは感謝しているだろう。確かに、90年代以降の左翼方面での「イマジン」のシンボル化現象には、私もあまりよい印象を持っていないところがある。異常に「イマジン」を持ち出して自己正当化する傾向がある。何でもかんでも「イマジン」をタイトルにして喜んでいる。加藤哲郎がイラク戦争に反対するネットの情報拠点を構築したときも、そのサイト名が「イマジン」だった。そういう類の「イマジン」サイトがゴロゴロしていて、左翼系あるいは元左翼系と思しき研究者のトップページに「イマジン」のメロディを流しているHPはザラにある。私はあれを見るのが好きではない。安直で過剰だ。マルクスが飾れないからジョンにしている。
現代の左翼方面の妙な精神のひ弱さと、素直でない心のあり方のようなものを感じる。大概は脱構築のヒネたスタイルで言葉を使う。知識はあっても、それが共感や合意の輪を広げる活動のエネルギーにならない。他を揶揄したり、嘲笑したりするために小手先の知識を道具に使い、先学の業績を小馬鹿にした言辞を軽く吐いて、そして自分が最終的に依拠する聖域を愛と平和の「イマジン」に定めて引き籠もっている。そういう左翼系が多い。マルクス主義の影響力が崩壊した90年代にその現象が始まった。だが、それらの脈絡とは別に、私はジョンが生きていてくれたらと切なく願い、ずっとそう思い続けてきた。例えばジョンが生きていたら、イラク戦争は防げたのではないかと今でも思っている。開戦の一ヶ月前だったと思うが、極寒のワシントンでベトナム戦争以来の規模の五十万人が集会した空前の反戦デモがあった。寒い日だった。参加者の数の多さに驚かされた。
だが、もしジョンが生きていて、「お前らこの日にDCに集まれ」と世界中に呼びかけていたら、私はきっとまだ見ぬワシントン見物も兼ねて、銀行から大事な貯金を下ろして、ANAのワシントン便の格安航空券をネットで検索していたのではないかと思われるのだ。そういう人間が世界中に何百万人といて、まるでイスラム教徒のメッカ巡礼のように、リュックサック一つでホワイトハウス前広場を目指していたらどうなっただろうか。世界中から雪崩れ込む数百万人の住食をサポートするネットワークが米国内にできて、ジョンの号令下で一糸乱れずボランティアしていたらどうなっていただろうか。そのデモの先頭にジョンとアナン事務総長が立っていたらどうなっただろうか。それでもブッシュとラムズフェルドは開戦に踏み切っただろうか。2月に日比谷公園で日本国内最大のイラク反戦集会があり、私も渋々それに出たけれど、野外音楽堂からは締め出されたので行進はやめてさっさと家路に着いた。
あのときは辺見庸が私の心の支えだったから、寒い中を日比谷公園まで出向いたが、目と鼻の先の日比谷公園に出かけるのさえ正直なところ億劫だった。けれども、ジョンが来いと言うのなら、ワシントンだって遠いとは思わないのだ。カリスマとはそのような存在である。生きていてくれたら、いろいろな歴史が変わっていて、常に私を幸せな気分に導いてくれていただろう。不惑を過ぎてもいろんな失態や騒動をやらかして、ヨーコと喧嘩したり、落ち込んで沈んだりを繰り返しただろう。でも、そのたびにまた天才の想像力と創作力で這い上がって、新たな作品的境地を切り開いて、偉大な音楽家の感性でわれわれを驚かせてくれたに違いない。挫折も放綻も彷徨もこの天才は絵になった。ジョンの中に自分自身が生きているようで、私にはどこまでも愛しい存在だ。二十五年間、生きていたら、どんな作品が残っていただろうか。ベルリンの壁崩壊やイラク戦争はどんな歌になっていただろうか。
一年に一度、そう考えて、思いにふけって静かに年が改まるのを待つ。