わたしも、防衛庁前のキャパーンクラブには、オープン当初から通っていました。確か、ジョンの悲報の翌年にオープンしたような...。まだその頃はそんなに混んでおらず、わたしも仕事の帰りに1人で行ったりできる癒しの場所でした。その頃から、Lady-Bugの演奏は抜群で チャックさんのベースが、ポールのように凄かった! 歌も、世界中のどのコピーバンドより群を抜いて上手い!、と今もって断言できる。今度、わたしの住んでる町に、The Bootleg Beatlesが来て家族で見に行くけれど、またまたチャックさんの上手さを再認識するんだろうなあ...。芋洗坂には、1、2度行ったっきり。あの頃のキャバーンが懐かしい。
上のような嬉しい投稿を頂戴した。防衛庁前のキャバーンクラブにはいい感じの固定客が多かった。毎回、何度目かのステージで必ず「バースデー」が演奏され、その日が誕生日のお客の名前がステージで読み上げられ、店からスペシャルなフードメニューがプレゼントされた。「バースデー」の時間になると硬い床を右足でガンガンやったものだから、私のスリップオンの踵はそれで確実に何ミリか磨り減った。懐かしい。
師走の季節になるとビートルズを聴きたくなるけれど、持っているCDを全部聴くわけでもなくて、特にここ数年を振り返ると、決まった年中行事のように後期のスタンダードとジョンのベスト盤を聞き流しているだけだ。それと言うのも理由があって、十年前くらいから、ビートルズインダストリーが年末を市場機会にして機械的に資本回転・資本蓄積するのが妙に鬱陶しくなってきて、その商業ムーブメントに敢えて関心を払わないように努めてきた。現在のビートルズインダストリーにはメイクマネーの動機しかない。愛するジョンを追悼し、偉大なビートルズを回想しようとする心がない。人がジョンやビートルズを思う心を金儲けの道具にして利用している。ビジネスの歯車の中でマーケティングしている連中は、もはやジョンが生きていた時代のことを知らず、自分の人生の中にビートルズの体験を持っていない世代なのだ。そういう連中に金を貢ぎたくない。だからこの季節にラジオからビートルズ関係の情報が流れても、それに熱心に耳を傾けないようにしている。
で、それでも稀に「ラバーソウル」とか「リボルバー」を聞き返してみると、意外なことに気がついて、それは何かと言うと、少なくない数のビートルズのオリジナル曲が、私の頭の中で二つのバージョンが並存していて、一つは原曲であり、もう一つはチャックのLadyBugの音なのである。例えば前に挙げた「ユア・マザー・シュッド・ノウ」などは、ポールの歌のものとチャックの歌のものの二つが完全に並存して頭の中にある。甲乙つけ難い。まるでフルトベングラーとカラヤンの二つのベートーベンがあるようだ。私は、若かった80年代、ひょっとしたら原曲を聞く回数以上にLadyBugの演奏を聞き込んでいたのかも知れない。当時は二つが頭の中に残るなどということは考えもしなかったが、十五年の歳月が経って、私の中のビートルズの曲のイメージはそのようになった。だから今はチャックが録音して残したCDを探して聴こうと思っている。私のビートルズ体験の中でチャックの存在は限りなく大きく、そして彼のビートルズはビジネスでもメイクマネーでもなかった。
何年かぶりに「ドント・レット・ミー・ダウン」のボーカルを復習しながら考えたのは、ポールにとってジョンをヨーコに奪われたことの大きさという問題だった。この問題は天皇制や北方領土の問題と同じく、人生の流れの中で私の考え方が左右し変化する。ジョン単独の作曲の印象が強い「ドント・レット・ミー・ダウン」だが、実際にはポールの影がきわめて濃い。ポールのハモが曲の厚みを見事に作り出していて、さらにポールのベース演奏が聴きどころになっている。この時期、ポールはベーシストとしても時代の先端を走っていた。この頃、ロックは多様に産業構造を膨らませつつあり、一方でプログレッシブのカテゴリーを分化独立させると同時に、メインストリームでは各楽器のスペシャリストがスーパスターとして脚光を浴びる時代に入りつつあった。その中心にいたのがエリッククラプトンであり、ジミーペイジであり、ジャックブルースである。そういう時代背景を考えながら、当時のビートルズの曲を聴くと、ポールマッカートニーの際立った才能がよく見えてくる。
ベーシストとしてもポールは誰にも負けない自信があったのだ。作曲だけでなく演奏でもポールの才能は大きく開花して、さらに窮極の音楽的高みへ上ろうと目指していた。巨大産業となって世界市場を制覇し、落ち目の英国経済に大量の外貨を獲得させていたブリティッシュロックの頂点に立って、その芸術的創造力を牽引する指導者になるべきカリスマをポールは持っていて、その立場と可能性を自分でもよく承知していた。だが、そのためにはジョンと一緒に作曲と演奏をしてアルバム作りをする必要がある。ジョンとビートルズが絶対に必要だった。ジョンと一緒だからポールは名曲の数々を作れたのだ。私がビートルズを聴き始めたとき、二十歳を過ぎれば身長が止まるように、人間も二十歳を過ぎれば完成された存在に近いものになるとばかり思っていた。けれどもそれは全然違う。人間の技能の開発は三十五歳までは誰でも無条件にできるし、三十歳から三十五歳のあたりが最も貪欲に自分の才能を伸ばして将来の可能性を広げる時期だ。ポールはちょうどその時期にさしかかっていた。
才能全開の前途に自信満々のポールと、その人生の可能性に挫折を与えられる恐怖の二つが、映画「レット・イット・ビー」の中によくあらわされている。映画の中で描かれたヨーコはまさに不吉な疫病神そのものだった。ジョンは撮影に非協力的で、まるで単なるバンドの雇われメンバーのような素振りで隅っこの方で下を向いていた。それに業を煮やしたポールがますますリーダーシップを振り翳し、独裁者のように残りの三人を指揮する絵になった。同じく才能を開花させ始めたジョージはそれに反発していた。今から思えばポールの感情はよく理解できる。ジョンがジョンらしい溌剌さを取り戻すのはアップル屋上でライブを始めた瞬間からで、あれでようやく映画は格好のついたものになった。映画ではポールとヨーコが視線で火花を散していた。ジョンを奪い合っていたのである。当時のヨーコは、歌も下手糞で音楽の才能は一切なく、前衛芸術家と言いながら絵も駄目で、顔もスタイルも女として見どころのない黄色系の中年ヒッピーだった。ジョンの死後もポールは雑誌でジョンの悪口を言い続けていた。
私はそれが許せなかったし、世界中のファンも心を傷つけられていたが、今にして思えば、人生の可能性を奪われ、バッハやモーツアルトを凌駕する音楽の聖人となり得る展望と必然を持ちながら、それを中途で挫折させられたポールの傷心と怨讐もわかるような気がする。裏切られたと思っただろう。屈折した愛憎とはポールのジョンに対する感情のことを言うのだろう。