市民社会や民主主義の理念を丸山真男がどのような具体像として捉えていたのかというのは興味深い問題で、それは例えば『ある自由主義者への手紙』や『現実主義の陥穽』などの論文の中にも何がしかのヒントが隠されているに違いないが、私自身は、それは恐らくヨーロッパの交響楽団のイメージだったのではないかと直感的に思っている。丸山真男の晩年の別の言葉で、「日本人は個々はとても優秀だが集団になると駄目ですね」という指摘がある。「丸山真男手帖」で読んだのか、「図書」か「みすず」の中で見つけたのか、出典を明示できないのが残念だが、私にとっては非常に心に残る印象的な言葉で、何度も反芻して意味を推し量る言葉である。丸山真男は何が言いたかったのだろうか。一般にはこれとは逆の言い方がされる。日本人は個々よりも集団で一丸になったときが力を発揮する。一昨年のアテネ五輪の男子体操などがまさにその典型で、日本人らしさを実感させられる絵だった。
通常の日本人観は丸山真男の指摘とは矛盾した結論になるのだが、丸山真男にはきっと見ているものがあったはずで、それは何かと言うと、やはりあの戦争のときの日本のあり方なのに違いない。個々はとても優秀な民族なのに、全体としては惨憺たる戦争をやって内外に大量の犠牲者を出し、国土を焦土と化して外国軍に占領される屈辱を招いた。個々の優秀さからは考えられない全体の愚かさと無能さがある。バブル経済の失敗を犯して構造不況と金融危機と財政破綻を結果させ、国民経済を自壊させて米国資本に占領された現在の日本も同様のことが言えるかも知れないが、そういう表象を念頭に置くとき、丸山真男の指摘は正鵠を射たものとして積極的に頷くことができる。そして、集団として優秀なあり方とは具体的にどのようなものかを考えるのである。侵略戦争と敗戦占領のときの日本も、バブルとバブル崩壊のときの日本も、共通しているのは指導者の無能と国民の無責任である。
無能な為政者や指揮官に全てを任せて破滅に至る。指導者の無能と失政を非難追及できない国民全体の無責任の体系がある。丸山真男が特に言いたいのは昭和天皇とその幕僚たちの無能と無責任だっただろう。指導者を選ぶということはとても大事なことだ。日本人はそのことに無頓着に過ぎるところがある。社会や集団の指導者という存在を重要視しない考え方がある。自然を規範に優越させる傾向がある。アテネのデモクラシーが光り輝くのは、デモクラシーを現実化するペリクレスの存在があったがこそなのだが、その歴史的事実には焦点を当てず、システムのみを物神崇拝的に注目してしまう。だから自然を規範に優越させる日本にはオーケストラ的なイメージが弱い。オーケストラは古典音楽を再現芸術する集団で、その集団は目的合理的な組織であり、音楽のイメージを作るのは指揮者であり、奏者は指揮者のタクトに従って自己の楽器演奏のパフォーマンスを最大限に発揮し全体に貢献する。
演奏者には独創は許されず、演奏能力のみが求められる。楽団の音楽を独創するのは
フルトベングラーやカラヤンの仕事である。で、以上のヨーロッパの交響楽団の集団像を念頭に置きながら、日本サッカーのチームの問題を考えてみると、トルシエが何をしていたのかが理解できるように思えてくる。トルシエが優秀な指導者であったかどうかは不明だが、常にその独裁と専横を非難されながらベスト16の結果は残した。四年前、地の利の味方は大きかったが、予想した以上に日本チームは強かった。中村俊輔を排除した采配は私にはミステークとしか思えなかったが、実戦になると、稲本潤一とか宮本恒靖など新しいヒーローが続々と活躍して目を見晴らされた。トルシエの指導が結果を残せたのは、トルシエの専制権力を吸収してチームを纏めた中田英寿の存在や川淵三郎の忍耐などの偶然があるのであり、トルシエ一人の功績では決してない。その条件のないカタールとモロッコでは
馘になった。
今回の日本チームを見ていると、何となく四年前のトルシエの役目を中田英寿が引き受け、川渕三郎の役割をジーコが担当している印象がある。中田英寿が現場で強権指揮している。ドイツで日本チームがどこまでの結果を示せるかはわからない。が、ジーコにトルシエのような強引さが無いのは事実で、私にはジーコがどのようなチームとゲームの理想像を持っているのかがよく分からない。トルシエは分かりやすかった。南米には南米独特の集団指導のスタイルがあり、そこには個人技と個々のフリーダムを重視する思想があるのだろう。が、一般的に考えれば、監督は楽団の指揮者であり、奏でる音楽のイメージを明確に持ち、その責任分担と能力貢献を楽器奏者に要求しなければならないはずだ。フィールドで敵と戦う軍団は心を一つに統一しなければならない。われわれから見て世界で最も優秀な監督に見えるヒディングも、就任当初は韓国チームとの軋轢が大きく、韓国世論から手酷くバッシングされた。
ヒディングは◎だがトルシエも○だろう。組織も集団も結果が全てである。結果が悪ければ市民社会も民主主義も画餅に過ぎない。戦争でペルシャに負けて滅ぼされていれば、ギリシャのデモクラシーも歴史にはならなかった。何度か見てきたW杯で、私が惚れ惚れとして見入るのは、ドイツチームの軍団と戦闘のあり方である。ホッケーをやっていた丸山真男はサッカーが好きで、未来社から出ている『後衛の位置から』のあとがきにも、その題名の着想に触れながらサッカー論が論じられている。丸山真男ならトルシエとジーコをどう見ただろう。