NHKブックスの『マルチチュード』を正月から読み始めて、戦争論の途中まで読み進んだ。<帝国>に対抗する主体としてのマルチチュードの概念化を企図した労作で、著者のネグリ=ハートは哲学の書だと言っているが、私からすればこれは紛れもなく政治学の本であり、前作と並んで政治学の古典となる中身を持つ力作である。<帝国>もマルチチュードも新しい概念であり、現代の世界を捉える新しい認識フレームの開発であり、本格的で野心的な社会科学の実験と挑戦である。その実験と挑戦は明らかにマルクスの知的営為と所産、そして課題を引き継ぐものであり、マルクス的知性による21世紀現代世界のトータルな構造把握のチャレンジである。私は前作はまだ読んでないが、新作を読み込む中でおぼろげながら<帝国>の概念は吸収できる予感はある。それは何故かと言うと、さすがに哲学書だと言うだけあって、言葉の説明や説得に対して著者の姿勢がきわめて誠実で丁寧だからだ。発明した新しい概念と認識枠組へ読者を導こうという著者の鋭意と情熱が十分に感じられる。
そのあたりが商業主義と権威主義だけを動機とする浮薄で自己満足的な日本のポストモダン主義者の著作とは一線を画するところで、著者の誠意が伝わるほどに読者は著者の関心や言葉使いと歩調を合わせようとする。アカデミーの管制高地を制した日本のポストモダン主義者は、例えば酒井直樹にせよ子安宣邦にせよ姜尚中にせよ、自己の学問研究において最初から一般読者の理解を目的としておらず、特殊な言語体系の世界を構築してその世界での評価や達成のみを追求している傾向が強い。言わば一般大衆の使う言語と切離された異質で非互換な言語空間を作り、それを国語(国民言語)たる日本語の脱構築の成果だなどと言い上げて燥いでいる状況がある。基本的に言葉遊びだ。社会を合理的に改造する思想にならず、変革主体を導出する理論にならない。政治を媒介しない。そして、そのポストモダン主義者の出生を問えば、思想的失業を恐れた元左翼が転向して転職したという哀れむべき事情こそが真実なのであり、だからこそマルクシズムへの近親憎悪が著しい。
ポストモダンと右翼国家主義という構造配置で現代日本の思想状況を捉えようとする論者が出て来ないのは何故だろうかと私はいつも不思議に思っている。登場するのは常にそのどちらかか、どちらかの亜流であり、資本と世論と本屋に阿ることと媚びることだけが得意な低レベルな商業主義的評論家のみである。脱構築の言説が実践的説得力がなく、現実の政治問題の批判や解決から逃避しているから右翼国家主義に世論が靡くのではないのか。アカデミーが脱構築の異質な言語世界に閉塞したから大衆は右翼国家主義の実践的テーゼの方に魅力を感じたのではないのか。そして脱構築サイドによる近代主義と社会主義への攻撃と破壊こそ、右翼国家主義にとっての目標そのもので、まさに決定的な「左右共闘」ではなかったのか。子安宣邦と姜尚中がNHKの終戦記念討論番組に出て来て靖国反対を言っても説得力がないのだ。言論そのものに迫力がないし、二人の学問的主張自体が、この十年間の右翼国家主義の政治的台頭に道を開くイデオロギー的役割を果たしたものだったからだ。
未完のプロジェクトである日本の戦後民主主義が、一般表象として現在これだけ矮小化され貶損されているのは、一にも二にも脱構築主義者のせいである。憲法の理念を説いて再興を図るのにこれだけエネルギーを要するのは、この二十年間、アカデミーの権威となった元左翼の脱構築主義者が憲法の理念を傷つけ唾を吐き続けてきたからである。ネグリ=ハートの<帝国>論の前提は国民国家の役割の後退という認識で、すなわちブルジョワジーの主権形態である国民国家が時代を支配するのが近代であり、国民国家に代わって<帝国>が主権の位置に来るとき、新たなポスト近代が始まると言っている。説得的な弁証で大枠として分かりやすい。それを説明するのにホッブズの『市民論』と『リヴァイアサン』を使い、さらにドイツの三十年戦争の歴史を近代の原初の光景として提示し、近代国民国家における戦争の「例外状態」を弁出している。この手法も説得的で唸らされた。巧い。戦争の態様や意味を掘り下げる中で現代の<帝国>が近代の国民国家と対比されて概念的に浮かび上がる。
だから<帝国>論においてもマルチチュード論においても、国民国家の後退と消滅という方向が基本的に前提されている。なるほどと頷きながら、ふと思ったのは、ネグリ=ハートの<帝国>論において中国はどのような位置づけにあるのだろうかという問題だった。二人はポスト近代における中国(社会主義市場経済)の意味と存在をどう捉え描いているのだろう。<帝国>論の枠組では合衆国とヨーロッパと日本はよく整理されて収まる印象があるが、中国はどうなるのか。という問題が頭に浮かんだのは、東アジアではむしろ国民国家の輪郭と役割が色濃く浮き上がってきている気配が漂っているからであり、マス(大衆)やピープル(人々)が、マルチチュード的方向性に向かうよりも、むしろネーション(国民)に逆戻りする可能性の方がリアルだからである。面白いことに、日本は<帝国>のフレームの中で植民地従属を極めながら、同時に過去の超国家主義(ウルトラナショナリズム)へと回帰しつつある。日本の軍国主義への回帰がインパクトとなって、その脅威が中韓に防衛的ナショナリズムを現出させている。
現在の日本は<帝国>的超近代と国民国家的近代の二つの属性を二重的に持つ。