小泉首相の年頭会見における過激な中韓批判は、その表現も内容も日本国首相の発言として異例であり、その傲慢さと非常識さに驚き呆れさせられたが、これには裏があり、プログラムされた対中外交政策の一環であることは言うまでもない。あの激越な批判の言葉は、明らかに米国政権が台本を書いて小泉首相に言わせているものだ。一見して短慮や愚昧や侠気の表出に見える小泉首相の奇矯な行動は、概ねその背後に米政権中枢からの指図があり、それに従いそれに則った政治行動である場合が多い。今回の行為はあからさまな挑発である。その目的は中韓の反日感情を煽り高め、昨年の反日デモのような騒動を誘発することだ。日本と中韓との間の対立をさらに深め、東アジアの情勢を不安定にしているのである。挑発しているのだ。平和を崩し、東アジアを戦争(冷戦)状態にするために、ブッシュ政権がロボットである小泉首相を操り、日本国内の右翼的な世論傾向を利用して、中韓を挑発する台詞を吐かせているのである。
ネグリ=ハートの<帝国>論によれば、<帝国>の主権はその内部を不断の戦争状態に置く。<帝国>においては戦争が常態で平和が例外のあり方となる。そして政治と戦争は未分離一体のものとなり、現象的にも思考的にも明確な範疇的区別を喪失する。<帝国>論的視角から現在の東アジアで起きつつある事態を解読するならば、<帝国>の主権機構の一部となった日本の政府と軍隊が、<帝国>の主権に服属しない外部領域に侵攻すべく軍事挑発を行っているのであり、米国が中国に軍事的圧力をかける役割を日本が機能的に代行しているのである。これは戦争だ。日本の新自由主義政権は、国内においては二極化政策を進めて格差社会を固定化し、一方で外に対しては戦争を発動して、戦争を通じて米国の一部になろうとしている。中国を真に軍事的経済的脅威だと考え、台頭する中国を封じ込め、軍事的圧力をかけて内部崩壊に導こうと目論んでいるのは米国である。日本には本来そのような動機や政策目的はない。
昨年、反日デモが起きて上海の日本総領事館が投石被害を受け、日本のネット世論が右翼的な論調で沸騰していたとき、
内田樹が次のような考察をブログで紹介していたことを思い出す。すなわち、小泉首相に靖国参拝を仕掛けさせているのは米政権で、その目的は東アジアの不安定化とその結果としての米国のプレゼンスの強化であり、靖国は米国の東アジア操縦棒として見るべきであるという指摘だった。靖国参拝は米国の対中謀略プログラムの一環であり、<帝国>が世界支配するための戦争遂行政策の便利な武器である。思えば北朝鮮拉致事件も、もしも米国の政権がブッシュ政権ではなくゴア政権であったなら、小泉首相の最初の平壌訪問の後、現在のような展開と状況にはなっていなかっただろう。第一回目の訪朝以前、日本は北朝鮮との間で
冷戦状態には入っていなかった。冷戦が始まったのは三年前からである。私はそれを、主に日本国内の右傾化の問題として捉えていたけれど、よく考えれば決してそれだけではない。
拉致事件を日朝冷戦へとドライブしたのも米国だ。そしてよくよく考えれば、その世論環境を醸成し構築したのはテレビ報道だった。「小泉改革」もテレビ、「小泉劇場」もテレビ。テレビ報道を米国に完全に押さえられている。とすると、今年のテレビは反中嫌韓報道にシフトするのだろうか。年末には「中国に親しみを感じる」人間が過去最低値を記録する世論調査報道があり、そして上海総領事館員の自殺事件報道があった。年初の挑発会見と一連の出来事をセットにして考えると、予定されたプログラムの進行の感を強くする。日朝だけでなく東アジア全体を冷戦状態にする気なのだ。日本人を戦争下の国民にする気なのである。日本社会をオーウェルの『1984年』的な世界に変える気だ。あの拉致事件騒動のために、新自由主義の格差政策の現実はマスコミ報道の関心から逸らされたし、また国民の意識においても、北朝鮮への憎悪が先に頭の中を埋めて、失業や収入減や負担増の痛みから政権批判に繋がる回路が削がれて行った。
これから日本はさらに貧富の格差が激しくなり、社会内部での不満や鬱屈が堆積して破壊衝動の火が燻ることになる。人の内面は荒廃して攻撃的で暴力的になり、それを転化吸収する具体的代償を求めることになる。冷戦は格差社会を統治する国家権力にとっては最適の政策であり、北朝鮮とは比較にならぬほど強大な大国である中国の脅威と憎悪を煽って刷り込めば、三年前よりも十倍程度の痛みを与えても、国民は反中感情の激憤で代償行為して、政府批判の芽は摘み取ることが可能だろう。今年はひょっとしたら、中国旅行中の日本人観光客が襲われて殺される事件が起きるかもしれない。年初の会見であれほどの暴言を吐くのだから、謀略プログラムは続きがあり、終戦記念日の靖国参拝もその一環として組み込まれているだろう。最後の禁忌であり結界であった終戦記念日の靖国参拝も、現在の世論と報道の趨勢ではほとんどデフォルトの雰囲気が漂っている。政治は予想外の不吉な一撃で新年が開幕した。今年も嫌な年になる予感がする。
国政選挙がないのが憂鬱だ。