戦争と政治の境界が未分離になり、戦争の継続が平和の維持とされ、戦争が永続化し常態化する世界こそが<帝国>の時代の特徴だと言うネグリの
戦争論に着想を得て、そこから考え起こした問題は、政治と芸能の境界がなくなり、政治と芸能がマスコミという容器の中で限りなく癒着し溶解している日本の政治的現実だった。無論、この傾向は最近に始まったものではなく、私がものごころ着いた頃から始まっていた問題で、丸山真男もどこかで、「文化人」という言葉を媒介にして、知識人が芸能人化し、芸能人が知識人化しつつある時代の状況を痛烈に批判していたが、特にこの二十年間は、政治家がテレビタレントになってテレビ番組で政治活動する場面が際立つようになっていた。昨年の夏から始まった小泉チルドレンのテレビ出演の様相は、殆どその極致と言うか末期的な印象がある。自己紹介の中で音楽プロダクションのオーディションへの応募と受賞の経歴を必ず披露する川条志嘉などにおいて、政治も芸能も世界は一つで区別はないのだろう。
松下政経塾も芸能プロも基本的に同じで、その通路の先にあるのは権力(と富と名誉)の世界であり、東大も松下政経塾も芸能プロも、そこへ自分を送り込んでくれるパスポートなのである。丸山真男の時代は、それでもまだ知識人と芸能人や政治家と芸能人の概念的区分は存在したのであり、だからこそ丸山真男の「文化人」批判が意味を持ち得たのだが、現在は最早そうではない。現代における権力のあり方は、テレビの画面そのものがまさしく権力の中心なのであり、逆に本来主役であるはずの国会や閣議の方が、テレビカメラの前で映像を作るためのサブセットになっていて、政治家はキャラクターとなって配役を演じ台本を暗記している。テレビの報道番組やお笑い番組が政治をやっている。そこに権力があるから彼らは番組のキャスターやコメンテーターやゲスト・トーカーを目指すのであり、そしてまたキャラクターというメディア・パスを通じて、政治家も、新聞記者も、局アナも、お笑い芸人も、弁護士も、全てコンパティブルな存在なのである。
その政治的真実を最も象徴的に浮き上がらせているのが小泉チルドレンの存在で、彼らは視聴者の前にあらわれた最初からワイドショーのキャラクターであり、芸能タレントであり、職務の半分以上をテレビカメラに顔を映す存在として政治家稼業を出発させた。テレビの世界が権力の世界であるというのは、基本的に米国でも中国でも北朝鮮でも同様だと言えるはずだが、日本ほど極端にテレビの世界と政治の世界が一つに溶解し癒着している国は他にないのではないか。そして溶解したその世界の特徴は、やはり「お笑い」という問題系である。他国と較べて日本のテレビ世界はまさに「お笑いファシズム」の世界である。テレビに出る人間は全員がお笑いタレントにならなければならない。お笑いのネタとキャラを競わなくてはならず、お笑い芸人としての資質を訴求し、ウケを取らなくてはならない。民放の夜のテレビ番組は、数年前から「お笑いファシズム」の体制が固まって、そのとき繁盛している同じお笑い芸人が同じようにスタジオでお笑い芸を見せている。
テレビ番組の形式はクイズ番組だったり、取材した映像が挿入されたりするのだが、演出と構成はお笑い番組で、出演者であるお笑い芸人が司会とゲストをやってコンテンツを埋めている。ドラマ以外の番組はすべて「お笑い」になり、報道番組もワイドショー番組の中継点を経てお笑い番組に変質しつつある。NHKも民放の真似をして番組のお笑い化を進め、何やら不気味な「お笑い官僚キャラクター」的な老若男女の「キャスター」が増えてきた。岸井成格も福岡政行も自分をお笑いタレントとして意識的に自己演出して、視聴者にウケるべく小細工を弄している。テレビが「お笑い」に変質し始めたのは80年代からで、その中心にはビートたけしがいる。20年前のとんねるずから始まって現在の爆笑問題に至るまで、果たして何人、何組の不愉快なお笑い芸人がテレビ映像を埋めてきたことか。最近は「お笑い」が政治を完全にカバーするようになり、田原総一朗の「サンデープロジェクト」すら、すでに古典的で高齢者番組的な印象が漂うようになってきた。
テレビのお笑い化、政治のお笑い化に対して、それを政治学的に理論分析する有効な視角を私は未だ持ち得ないが、少なくともセンスとしては、感性と態度の問題としては、そうした社会的現象に対して拒絶する矜持を維持したいと思って、実際のところ、状況の進行を批判する議論ばかり強く言い続けてきた。お笑いが日本社会を席巻占領するに際して、それを後押ししたのは脱構築主義である。日本の脱構築主義(ポストモダン)は、まさに脱知性主義として人を扇動し、脱規範主義として日本人を感化した。「赤信号、皆で渡れば恐くない」の思想である。
ロバート・R・ベラーが
「近代とは倫理の問題である」 と言った意味はここにあり、その言葉はまさに日本の真実を衝いている。B層問題はこの点に関わる。マーケティングの手法で導出される
B層は、二つの軸によって概念構成され、一本はデモグラフィックだが、もう一本はライフスタイルでセグメントされるモデルなのである。ライフスタイルの問題なのであり、「小泉改革」に肯定的か否定的かで分かれるのだ。
デモグラフィックの側面だけから 「私はB層だが」 などと簡単に言ってはいけない。