長谷川等伯の晩年の作品である松林図屏風。ここ数年、特に人気が高く、等伯関係の研究や
出版も旺盛な印象がある。五年前にNHKが行った国宝の人気投票で第一位に選ばれていた。開催された企画展の解説にも「わが国水墨画の最高傑作」と評されている。その評価で間違いはないと思うが、我々が子供の頃は必ずしもそうではなかった。我々が幼い頃の日本の水墨画の最高峰は雪舟で、特に、俗に山水図と呼ばれる秋冬山水図の冬景図が有名であり、教科書にも必ず紹介されていたものだった。小学生の頃、一時、子供の間で切手コレクションが異常に流行した時期があり、マニア垂涎の一点が
これで、普賢菩薩や見返り美人などと並んで、収集家たちの欲望を掻き立てていた。今から思うと、我々の世代は、文部省による学校教育課程よりも、郵政省によるマーケティングによって日本美術史の基礎知識を得ていたことになる。一峰が尖塔のように天空を突き刺す特徴的な構図は、子供ごころにも美しく華麗で、その図柄は誰の心をも捉えていた。
等伯の名前は、高校の日本史教科書にはあったと思うが、作品名の松林図屏風や写真が記載されていた記憶はない。ただ有名な絵だから、何かの本で何度か目にしていて、よく見る水墨だなあという程度の印象だった。よく見れば傑作なのだけれど、雪舟の山水図のような強烈な構図的個性がなく、プレーンで、敢えて言えば、誰もが好む普遍的なモチーフであり、中世から近世にかけて同じような水墨画が何点もあるのではないかという想像を抱かせる作品だった。正直なところを言えば、私自身もNHKの国宝番組で初めて作者と作品を一致させることができ、この傑作と本格的に出会うことができた。しかし、そのときの出会いは、単に人気第一位という情報を得たにとどまらなかった。この作品を大きな価値をもって私の心の中に据え置く結果に導いたのは、何と言っても、放送の中で松林図屏風と対峙して迫真の解説をした五木寛之の語り口であった。私と同じ経験と感動を共有している人は少なくないはずで、それがまた松林図屏風の人気を増幅させた。
五木寛之の説き語りで松風図屏風の魅力に惹き寄せられた者は多く、私もそうした中の一人である。照明を暗く落としたギャラリーを歩み進み、松林図屏風前に直立して口を開いた五木寛之の言葉は絶妙で、私は司馬先生に感じて以来の思想表現のオーラルパフォーマンスに興奮させられた。司馬先生のオーラルは最高だった。何本かETVで対談の特集番組があって、それらも全て素晴らしいが、間違いなく最高傑作なのはNHK総合特番の『太郎の国の物語』で、この作品は後でNHKブックスの『明治という国家』になったが、そして私はこの本を五回読み返しているけれど、本よりも映像に残っているオーラルが百倍素晴らしい。芸術的である。録画を見るたびに感動して涙が流れる。思想家はオーラルができるかどうかだ。書いた文章がよければそれでいいというものではない。丸山真男もそうだった。安保闘争時の集会演説、晩年の大山郁夫論講演、討論会での談論風発を目撃した者は、聞く者の精神を律動の極に導く圧倒的な興奮体験を告白している。
思想家は詩人でなければならない。言葉が人を感動に導くためには、思想家の言葉は詩でなければならず、表現と構成は音楽作品のようでなければならない。そのオーラルが五木寛之は素晴らしい。才能において司馬先生を十分に継いでいる。松林図屏風解説でオーラルパフォーマンスのカリスマ証明をした五木寛之は、その後、その才能を『百寺巡礼』で縦横に発揮して、視聴者を喜ばせ、不況下で悩み苦しむ無数の中高年を寺と仏教に導いた。それは常に一瞬の真剣勝負の即興の語りであったが、そこで吐き出す言葉には練りに練られた思索と含意があり、長時間をかけた事前の調査研究と原稿の推敲暗記がある。だが、現場では一発勝負であって、薬師寺を語ったときも、中宮寺の弥勒菩薩半跏像を語ったときも、恐らくはリハや撮り直しのない一発勝負で立ち臨んで言葉を送り出しているのだ。『太郎の国の物語』のときの司馬先生が同じで、それは番組プロデューサーだった吉田直哉が証言している。『街道をゆく』も同じく一発勝負の創作だった。
NHKの放送から暫く経って、
出光美術館で等伯の企画展があり、現物を間近にする機会を得た。照明と展示の効果にもよるのだろうが、目の前の左右に大きく開き置かれた松林図屏風の正面に立っていると、心の中に霧に覆われた
能登の松林が広がって行き、靄(もや)がかかった情景の中に身を置いているような幻想的な感覚に包まれる。心がすっぽりと松林図の世界に入り浸り、そこで静かに時間が止まって満ち足りた気分のまま過ごすのである。その空間から離れたくなくなり、立ち続けた足腰に疲労を感じ、やがてそのまま床に座って松林図屏風を眺めていた。描かれているものは自然でありながら心象風景であり、心のありようは、ひたすら静穏で作為性がない。余白が大きく、大きな余白が構図のバランスを見事に取りながら、それ以上に思想的な深さを浮かび上がらせている。松の木立は石庭の岩であり、霧の余白は水面を喩える白の玉砂利なのだろう。近世日本の芸術創造を媒介する禅の思想。確かに松の一本一本の影と形に擬人的な気配があり、光琳の紅白梅図と同じく日本画の特徴がそこに出ている。
実物は左右に7メートルの広がりがある。だからPCの画面で見る印象とは全く異なる。