橋田壽賀子原作のドラマ
「ハルとナツ」が再放送されていて、その第一回が昨日(3/27)の夜だった。舞台は戦前で、北海道の貧農の一家がブラジルのコーヒー農園へ移民に行く話。一家は北海道から列車を乗り継ぎ、神戸から船に乗ろうとするが、七歳のナツがトラホームのため一人だけ日本に残されてしまう。仲のよかった二歳上の姉ハルと妹ナツが船のタラップ上で引き裂かれる別離のシーンが最高で、感動して涙がこぼれてしまった。特に妹ナツ役の志田未来の演技が素晴らしく、この場面の演技は日本のドラマの歴史に永久に残るだろう。思えば二十年前の「おしん」の小林綾子もそうだったけれど、橋田壽賀子のドラマは子役(主人公の女の子)が感動的な場面を作る。子役にきわめて重要な役割を負わせ、そして子役に抜擢された女の子が、まるで橋田壽賀子の魂が乗り移ったかのように迫真の演技をこなして作品に命を吹き込む。姉妹の愛がテーマのドラマだけれど、戦前から戦後の日本人を描き出す橋田壽賀子の絶妙の世界、すなわち「おしん」の世界が見事に再現され訴えられていて、懐かしさとともに納得的に受け入れられ、テレビの画面に九十分間釘付けになってしまった。
山崎豊子の「大地の子」の感動も思い出した。NHKは最近こういうのを作らないなと不満に思っていたのだが、きちんとブラジル移民をテーマにした大作を作っていた。橋田壽賀子もこの作品で山崎豊子と向田邦子と並ぶ。橋田壽賀子は立派だ。戦前日本の寄生地主制(地主小作制)なるものは、橋田壽賀子の映像こそが最も説得的にわれわれに教材提供してくれる。少女の目線から捉えた貧農小作一家の家父長制の現実、村落共同体と血縁共同体の現実、それらこれらは、戦前の
講座派経済学が理論で世界構成して教え残してくれていて、古典的な学問として学べるものだが、それがそのまま映像化されたのが橋田壽賀子の歴史ドラマであり、その大いなる社会科学的説得力の前に、ただただ息をのんで脱帽してしまう。たしか「おしん」の中でも、伊東四朗が演じていた父親が、老母を家に置いてブラジルへ移民に行くと言い出す場面があったような記憶がある。だから
「ハルとナツ」は、橋田壽賀子がその当時から暖めていた企画だったのだろうし、「おしん」のブラジル移民版と言ってもいいだろう。あのまま(伊東四朗の)一家がブラジルに渡っていれば、おしんはハルになっていた。
ブラジル移民史を本格的に題材にしたドラマを見るのは初めてで、小説もこれまで読んだことがない。ドラマでは彼ら移民コロノ(契約雇用農)の労働と生活を実態に即して描いているが、実際にはもっと過酷なものだっただろう。ドラマが五回完結ではなく「おしん」のように長いシリーズのものであったなら、橋田壽賀子らしく生活の細部まで丁寧に描写していたに違いない。
第一回の話の中でハルたち高倉家一家に住居用のボロ小屋があてがわれる場面があるが、例えばあの小屋の水回りはどうなっていたのだろう。水道は整備されてないはずで、井戸を掘るか、川から水汲みという問題があったはずだ。トイレはどうだったのだろう。病院は。ハルの生活を見ても分かるとおり、労働だけで学校など行く余地も(存在すら)ない。エンコミエンダ制の残滓の残る南米の
コロノは、人権という観点から見れば事実上奴隷に等しい。それでも日系移民は勤勉に働いて地位を向上させたというのが歴史の一般論であり、それはそれでいいのだけれど、ひるがえって逆の側からこの歴史的事実を考えると、これは基本的にアイルランドやポーランドの移民と同じである。近代日本は何でこんなに貧しかったのだろう。
アイルランドは長く英国の植民地で、その苛烈な統治の下で全島飢饉に襲われ、人は生きるために新大陸に渡った。ポーランドもロシアほかに占領されて、ポーランド人は土地を持たない小作農だったのだろう。異民族による支配と収奪の下での貧困という問題がある。そうでないところでの移民というとイタリア南部(シチリアとか)くらいだろうか。移民は、近代国家を会社と考えれば、余剰人員のリストラだ。日本は株式会社を始めた途端に余剰人員を発生させて、米国に、ブラジルに、旧満州に放逐して行った。真面目に考えればおかしい気がする。明治維新から五十年後には国内に大量の余剰人員を抱えて、それを放出する先を探していた。地主小作制は江戸期から続くものであり、だから小作が食えなくなった理由をマクロ的に考えれば、やはり地租金納で国家が取る分が重くのしかかって、末端の小作にそのシワ寄せがかかったという理解になる。鉄道建設や帝国大学や、それより何より巨額の軍事費(軍艦の購入と建造)の財源確保のために、最下層の農民の収入が必要以下まで減り、アイルランドやポーランドと同じ不様な真似をせざるを得なかったのだ。国家による収奪の犠牲である。
システムの構造的問題もあるけれど、軍事費の負担のために食えない人間を作ったとしか考えられない。戦争に負けて、マッカーサーが上から革命してシステムが変わった途端に、内部から循環成長する経済になり、おかげで外にリストラ放出される日本人がいなくなった。前にも、他の支配例と比較しても、日本人が征服した異民族を同化(皇民化)させる手法がいかに残酷かを論じた
ことがあるが、日本人は同じ日本人に対しても本当に冷酷で残忍である。少しパイが小さくなると、同じ日本人を弱い者いじめする。生きる権利を奪って追い詰める。「和をもって尊しとなす」民族の原理はフィクションだ。歴史をリアルに見れば、それは真っ赤な嘘である。マッカーサーの革命、すなわち寄生地主の階級廃絶から半世紀が経って、また日本人は、元の同じ日本人が日本人を苛めて食えなくする社会(格差社会)に逆戻りしようとしている。もう一回戦争でもして、誰か外国人にリセット(革命)してもらうつもりなのだろうか。ドラマを見ながらそんなことを考えてしまった。橋田壽賀子の説得力はいろんなイマジネーションをインスパイアさせる。ドラマはあと四回続くが、少し不安なのは大事な主人公を米倉涼子が演じることである。
大丈夫だろうか。橋田壽賀子だから、キャスティングをスタッフに任せるはずがなく、すなわち橋田壽賀子がドラマの最も重要なハル役に米倉涼子を指名したことになる。ナツ役の仲間由紀恵は順当で、これは安心して見ることができるが、ハル役の米倉涼子はどうだろう。私がNHKのディレクターだったら、「橋田先生、ここは米倉涼子ではなく宮沢りえを持ってきましょう」と提案したと思うのだが、橋田壽賀子は米倉涼子のどこが気に入ったのだろう。老ナツ役の野際陽子も素敵でとてもいい。