私の
予想どおり、小沢一郎は菅直人を幹事長に据えなかった。代表代行は名前だけで実権はない。民主党の挙党態勢は代表選当日の一日だけで終わった。菅直人が幹事長ポストから外れたら挙党体制にも挙党態勢にもならない。小沢一郎の対立候補に投票した全体の四割ほどの議員の意思は完全に無視された形になるからだ。小沢一郎と菅直人の2トップ体制を組んではじめて挙党態勢の実現と言えるのであり、それは朝日新聞が必死で奔走し周旋した青写真でもあった。小沢一郎は朝日新聞の理想とする挙党態勢を蹴り、自分の理想の方を選んだわけで、もともと代表選は小沢一郎の本意ではなかった。小沢一郎にとっての今回の挙党態勢とは、全員が土下座して小沢一郎を仰ぎ迎え、小沢一郎の超然たる絶対権力を認める図式であり、代表選挙だの、立会演説だの、多数派工作だのは、面倒くさくて不本意きわまる想定外の煩事だったのだ。代表代行ポストは小沢一郎にとっては「話し合い」を邪魔した菅直人に対する当然の報復であった。
菅直人が代表選で熱く訴えた「最小不幸社会」の公共福祉主義政策は、単に民主党への票集めのためだけに「撒き餌」として利用される。今回、小沢一郎は前執行部をそのまま再任するという唖然たる珍人事を発表したが、いかにも小沢一郎らしい人をバカにした政治手法である。この噴飯人事を三つの観点から分析しよう。第一に、この人事の意味は鳩山由紀夫を幹事長に就けたかったという一事に尽きる。菅直人を外した場合、名前として座りのよいのは鳩山由紀夫であり、最初からそれが本意だった。そして偽メール事件の責任をとって辞職したはずの鳩山由紀夫を幹事長として続投させるならば、他の執行部の連中の首もそのまま据え置く以外にない。第二に、これは小沢一流の無責任手法であり、要するに新執行部が党運営で何か失態や問題を起こしても、自分には責任はないと最初から布石を打っておくやり方である。自分は任命者ではないから責任は負わないという免責防衛策であり、逆に言えば、何かを口実に簡単に首を切れるのだ。
言わば「表の責任」のための執行部体制である。表の執行部には何の実権も与えず、役職として責任だけを取らせ、実際の党運営や国会対策や政策立案は裏の執行部で決めて操る。裏の執行部とは小沢一郎の側近であり、実質的に小沢一郎が一人で仕切って動かす。説明はしない。第三に、この人事手法を見ても分かるのは、小沢一郎は党運営や政策には全く興味がないのだ。興味があるのは政権を取ることだけで、政権を取るために選挙で勝つことだけである。後半国会や政策論議なんてどうでもいいんだという態度をあけすけに見せているのであり、好きにやってろと言いたいところを、口に出さずに態度で示しているのである。実際に、代表選のときの小沢一郎の
政見を耳を澄ませて聞いたが、中身を伴う具体的な政策主張は何も無かった。石原慎太郎が
酷評しているとおりで、抽象的で観念的で無内容な、一時代前の自民党代議士が田舎の爺婆支援者相手に聴かせるようなアナクロ感の漂う演説内容だった。「政権交代」以外に何も言っていない。
小沢一郎というのは政策の議論ができない典型的な政治家である。プレゼンテーションが下手であるだけでなく、頭の回転が鈍く、頭の記憶装置の中に必要十分な情報量が入っていない。理論が苦手で、弁が立たない。現代において要件必要される政治家の資質としては最悪の事例であり、それの最良例を見せている菅直人と対照的である。それでも小沢一郎が「実力者」として影響力を標榜できたのは、表に出ず、公開の政策議論の場面を避け、ひたすら「影の首領」として不気味な存在感を自己演出し、それをマスコミ(政治記者)に宣伝させ続けてきたからに他ならない。小沢一郎は、簡単に言えば封建時代の殿様であり、生まれたときから周りが「へへーっ」と頭を下げて崇めてくれる人間関係しか知らず、そういう関係にしか適応ができず、そういう擬似関係を組むことでしか生きられない前近代的な人格性である。だから、自分が何か政策主張して、それに反論なり質問が返ってくると、それに対して論理的な対応ができない。感情的な反応しかできない。
すぐにムッとした恐い顔で相手を睨みつけ、不快と拒否の感情を相手に投げつけ、言葉ではなく視線と態度で情報発信し、それを相手への回答の代替物にする。要するに「そんな事をオレに聴くな」という嫌悪と威圧のメッセージを返してその場をやり過ごそうとする。政策理論なり立場説明を正当な言葉で聞きたかったコメンテータや新聞記者は、そこで怯臆し逡巡して質問や追及を止めるか、あるいは逆に感情的に反発するかのどちらかだ。小沢一郎とは論理的な対談が成立しない。論理的な対談を成立させない前提で小沢一郎は周囲と関係を組む。最初から説明責任を否定し拒絶する。テレビカメラが入っている場面では、小沢一郎もムッとした不興の表情と無愛想な虚勢の応答で済ます程度だが、テレビカメラが入ってない場では、追従と諂阿を言わない相手に対しては傍若無人な恫喝で済ませているに違いない。小沢一郎は「新しく自分も生まれ変わる」と言い、二大政党制イデオロギーを喧伝しているマスコミはそれを絶賛しているが、それは嘘である。
嘘である証拠が菅直人の代表代行人事であり、前執行部再任「
居抜き」人事の茶番である。「挙党態勢」も口先だけの嘘であった。民主党は必ず揉める。小沢一郎はプレゼンテーション能力のない前原誠司と同じだ。幼児的な独裁者としてのメンタリティは同一である。反発して愛想を尽かす議員が必ず出てくる。無用な悶着と喧嘩を自ら起こして騒動する。小沢一郎の無能と独善と無責任は民主党を分裂と解体に追い込むだろう。