弁護士法はその第1条で「
弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする」と定めている。一般に弁護士の仕事は、単に裁判で弁護を引き受けた依頼人の利益をマキシマムに追求獲得し、権利の実現に尽力貢献することだと考えられていて、今回の問題でもそのような皮相的な理解が横行しているように見えるが、無論、それは弁護士の使命を見失った誤った認識である。弁護士の使命は二つ、人権の擁護と正義の実現である。今回の安田好弘と足立修一の問題は、二人が被告人の人権の擁護にのみ妄執狂奔して、正義を実現する弁護士の使命を忘れ、無視逸脱していることである。ところで、この社会正義の実現は、弁護士が単独に負う使命ではなく、司法に携わる者の全てが等しく使命として受け持つものである。したがって刑事裁判は、裁判官と検察官と弁護士の三者が共同の作業で社会正義を実現するものであり、単に対立する二者と判定者で勝ち負けのゲームを演じているのではない。弁護人は弁護を通じて社会正義を実現しなければならない。
安田好弘と足立修一の今回の所業は、社会正義の実現の弁護士の使命を最初から放棄していて、単にこの事件を「死刑制度廃止」の政治目的のために宣伝利用している。だから誰からも支持されないのだ。二人は自分の行動を崇高な信念に基づくものとして確信しているのだろうけれど、二重の意味で根本から倒錯していて、一つはこの行動が「死刑制度廃止」の世論や関心に大きく悪影響を及ぼす結果に導くであろうという政治的失敗と、もう一つは弁護士の地位や裁判制度そのものに対する国民の不信を惹起増幅せしめたことである。前回の上告審口頭弁論欠席も、国民が納得できる合理的理由はなく、明らかなルール違反である。今回の一審二審の事実認定に異議を差し挟む強引なやり方も、単に裁判の遅延と時間稼ぎを狙ったもので、麻原彰晃の延命のために裁判を混乱させている卑劣な手法と本質的に同じである。弁護士の特権を利用して、正義を捻じ曲げ、被害者遺族の人権を踏み躙り、「死刑拒絶」のイデオロギーを貫徹しようとしている。そのように見える。
二人とも、自分の主張していることが詭弁であり、社会の常識や道理に合わない姑息な便法術策であることは了解しているはずなのだ。今回の件も、死刑か無期かが争われる世間注目の裁判だから、そこに無理やり介入して、騒動を起こして、「死刑制度反対」を訴求するデモンストレーションの場にしたのである。二人はその弁護(と言うより政治)活動によって福田孝行の生命を数年間長く延ばすことができるのだが、その分、事件の解決を求める被害者遺族の救済を数年間先延ばしにする。この二人のやり方を国民は支持しない。私も支持しない。税金の無駄であり、時間の無駄であり、被害者遺族の人権侵害であるという主張に同意である。広島の弁護士である足立修一は「
九条の会」のメンバーでもある。間もなく憲法記念日であり、これから教育基本法の改正や国民投票法案が国会で論議されるのだが、この問題は憲法をめぐる世論に影響を及ぼすだろう。拉致問題と同じような世論構図がマスコミによってオーガナイズされるはずで、現にネットの中ではバッシングが始まっている。
人権派弁護士の非常識と妄動を攻撃することによって、彼らの政治的立場の全体を異端化し、排撃する世論工作である。その意味では、今回の二人の行為は明らかに護憲派にとって「自失」であり、少数派に追い詰められつつある護憲派の立場をさらに不利に追い込むものである。左派の立場で人権擁護や死刑廃止を一般論として唱えてきた者でも、今回の安田好弘と足立修一の愚行を擁護できる者はいないのではないか。多数を説得することは絶対にできない。支持を調達することは不可能だ。せいぜい左翼だけが固まった身内の狭い空間で「少数意見」を言い合って納得し合う程度に止まる。外の一般社会では、護憲派=人権派弁護士=非常識=異端という方程式の観念が醸成され、通念化され、簡単に否定できなくなり、逆に改憲派=社会正義=正論=多数派という社会常識の方程式が固められてゆく。今回の安田好弘と足立修一の所業は正当化できないのだ。二人はそれを政治として敢行したのだろうが、完全にマスコミの政治によってリバースをかけられ不当化された。
二人の軽挙妄動は護憲派に深刻な打撃を与える失策であり、護憲派から改憲派に転向しようとしている(元左翼の)マスコミ文化人たちに格好の口実を与える好餌となったに違いない。転向の季節は果てしなく続く。改憲のその日まで続く。護憲から改憲への改宗(思想転向)を自己正当化するためにはイデオロギー的触媒(口実)が必要であり、人権派弁護士の妄動とそれへの国民的反発は、北朝鮮拉致問題に続く第二の効果的な思想的槓桿になる。そういうことを足立修一は自覚的に考えて、自問自答して、その上で福田孝行の弁護をどうするか考えなければならなかったはずだが、一審二審の事実認定が誤りだったというような荒唐無稽な論法で死刑回避を狙ってきた足立修一の戦術は、政治としてあまりに稚拙で惨憺たるものであり、護憲を主張する者の心を傷つけ、政治的立場の説得力を削ぐ最悪のものだったと言える。自殺行為だ。左翼の緊張感の欠如と言うか、「空気の読めなさ」というものを感じる。政治的に敗北する側は、このように正常な理性と現実感覚を喪失するのだろうか。
護憲派の愚行と自滅を見ながら
護憲の説得力を作るのは本当に至難の業だ。