世に倦む日日
2008-11-11T15:33:51+09:00
thessalonike2
本と映画と政治の批評
Excite Blog
再度の引越しのお知らせ
http://critic2.exblog.jp/3347977/
2006-05-02T23:30:00+09:00
2007-09-01T23:00:02+09:00
2006-05-02T15:35:47+09:00
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未分類
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Blog Status Report Apr 06 - Utilize blog TB Center
http://critic2.exblog.jp/3326824/
2006-04-30T23:30:00+09:00
2007-08-05T11:39:46+09:00
2006-04-29T16:00:17+09:00
thessalonike2
プロフィール・その他 (15)
月末の週末なので4月の月例報告を。「カナダde日本語」の左下にFC2仕様の逆アクセスランキングが表示されていて、ブログが第1位で2350件と数値が出ている。この件数が何を意味するのかよく分からないが、TBを経由したブログからの一週間分のリターンアクセス数だとすれば、一日平均で350件近いアクセスバックを提供しているというカウントになる(一ヶ月分なら一日80件)。最近のブログのサブスクライバ数は平日一万人ほどを推移していて、ブログの右上にトラックバック記事のタイトルを立てれば、恐らく一日で百件から二百件のアクセスバックを回収できるものと思われる。ぜひ積極的にブログをトラックバックセンターとして活用していただきたい。最近、どうやらそういう商売系のリストに載ってしまったようで、やたらに営業目的のTBが集まって来る。商売ブログのTBを一律に禁止するつもりはないが、当方に何のベネフィットもオファーできない商売TBは無意味なので削除させていただく。
先月のレポートの中で前原誠司の検索順位を上げることを4月の課題にすると言ったが、それからわずか一週間後に前原誠司は代表を辞任して、偽メール事件へのブログの追及は3月で打ち止めとなった。3月に13位だった前原誠司のグーグル検索順位は、少しだけ上がって現在第9位に位置している。偽メール事件で活躍した民主党議員の関連でブログの検索成果を報告すると、圏外だった玄場光一郎が第6位をアチーブしている。暫くの期間は留まるだろう。西澤孝の雑誌「DUMONT」に登場した五人の議員だが、馬渕澄夫は第7位、石関貴史は第8位、北神圭朗は第9位、藤末健三は第11位、松本大輔は第7位となっている。馬渕澄夫以外の四名は、特にこれから大きく名前を売る機会もないだろうから、今回が議員生活史上最大の「政治実績」として残るかも知れない。次の選挙で彼らが立候補した場合は、選挙区の有権者は検索エンジンを駆動してブログの情報を参考いただきたい。
インターネットは議員にとって厳しい監視装置である。同じく3月には圏外の30位であった末松義規は、一ヶ月後の現在は第8位にランクアップを果たした。末松義規についてもブログ記事は長く検索上位に常駐するだろう。末松義規というのは、経歴的にも態度的にも、民主党の政治家像の典型を示すもので、まさにモデルを提供している。小選挙区制による二大政党制というのは末松義規のような政治家を大量生産するシステムだった。その二大政党制は第12位になっていて、政治改革は第8位に至っている。山口二郎については遂に第5位までランクを上げてきた。政治改革もすでに過去の歴史となりつつあるが、それが何だったか若い世代が調べるときは、ブログの記事が役立てれば幸いと心得る。「過去の誤った歴史の美化」は何も右翼だけの専売特許ではない。政治改革の宣伝で大出世して、政治改革の歴史を自己批判しない学者は大勢いるし、未だに政治改革は成功だったという話になっている。
ブログと政治改革との関係はマルクスと資本主義の関係に等しい。どこまでもデモーニッシュに追跡して息の根を止める。4月は民主党関係と二つの刑事事件と日韓関係の問題がテーマとなったが、本村洋は第6位のランクとなっている。本人が記事を読むことはあるだろうか。久しぶりに顔を見たが、相変わらずいい感じだった。これから高裁での差し戻し審が始まって、判決が出てもまた最高裁に上告されて何年か時間が経つ。ひと波乱ふた波乱ある。多くの人間がこの事件を気にしながら、横目で見ながら自分の人生を歩んでいるのだけれど、事件が最終解決されるとき、自分はどうなっているだろう。そう言えば、チェルノブイリ事故から二十年が経ち、小泉政権発足から五年が経ったという報道を聞いて、その二十年前や五年前の出来事に立ち会っている自分がいて、そのことを記事にしたかったが、構成される記事の内容に具体性が入りすぎ、それは個人情報のリスクに繋がるので躊躇して止めた。
躊躇せず書ける立場だったらよかったが、人生は思うようにはいかない。そんな事を思っている人間が世の中には無数にいるのだろう。「ダ・ヴィンチ・コード」は第7位となっている。文庫が先月発売になって以来、キーワード検索で毎日60件ほどのアクセスが来ている。シオン修道会の検索来訪も多く、シオン修道会では第5位。それから、作品の登場人物の中で最も面白いキャラクターと思われるアリンガローサについて、ブログのグーグル検索順位が第1位になっていた。映画ではアリンガローサとティービングを演じる俳優の演技に注目したい。関連で「聖婚」が第1位、「聖娼」も第1位、「ヒエロス・ガモス」が第3位、「聖杯伝説」が第10位と健闘している。例のノルマンディーでのソニエールの性の儀式は、映画ではどのように処理されているだろう。「ダ・ヴィンチ・コード」の世界はひたすら面白い。ここ二年間の私の人生を楽しいものにしてくれた。それは、同じ年頃の欧米の男たちもきっと同じ事を思っているに違いない。
ブログを読んで、「ダ・ヴィンチ・コード」に興味を持ってくれる人が増えれば幸いと心得る。
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北朝鮮との戦争 - 安倍晋三が3兆円負担で大統領面談を買った
http://critic2.exblog.jp/3339857/
2006-04-29T23:30:00+09:00
2007-09-12T15:44:39+09:00
2006-05-01T11:36:15+09:00
thessalonike2
竹島問題・日韓関係 (7)
三週間ほど前に電車に乗って座っていたら、隣に中年の夫婦連れが腰掛けてきて、二人で天井の中吊広告を指差しがら会話をするのが聞こえてきた。その中吊広告は週刊文春の当時の最新号のもので、「横田めぐみさんに男の子がいた」というような目を惹くタイトルが宣伝されていたものだった。夫婦連れの妻の方が、「あら、めぐみさんには男の子もいたんだって」と夫に話しかけたのだが、夫の方が「それ本当かどうか分かんないよ」と妻に返した。夫は中吊広告を見上げながら、「拉致の話って、何がどこまで本当なのか全然分かんないよね。信用できない」とハッキリ言った。それに合わせて妻の方も、「たしかにそうだよね」と頷いていた。二人の会話を聞きながら、私は内心ホッとして、多くの普通の市民は、この中年夫婦のように拉致事件を捉えているのだろうと思ったし、市民は単にマスコミに騙されているだけでなく、あまりに過剰なマスコミのプロパガンダ報道の洪水に対して胡散臭さを感じているのだろうと思った。
先週の金曜日から週末の報道は横田早紀江の米国訪問一色で、NHKの7時のニュースも前半の15分間は全て横田早紀江のワンマンショーで塗り潰された。4/28の金曜日は米国下院公聴会での「めぐみちゃん」アジ演説、4/29の土曜日はブッシュ大統領との面会ショット、4/30の日曜日は成田空港に凱旋帰国。横田早紀江と拉致報道漬けにされたGW前半の三日間だった。4/28には衆院法務委で「共謀罪」法案が強行採決されるかどうかの緊迫した情勢があり、左翼系のブログは、今回の横田早紀江の訪米と拉致報道の洪水は共謀罪を国民の目から隠すための政府の陰謀だと怒っている。この指摘は当を得たものだろう。4/28の「報道ステーション」には共謀罪の特集が予定されていたのだが、古館伊知郎が「今夜は緊急でこのニュースが入ってきたので特集の予定は変更します」と言って、横田早紀江の公聴会劇場で共謀罪を押しのけてしまった。「緊急で」はないだろう。古館伊知郎の顔が笑っていた。
見え透いた言い訳を顔に出さずに言うのは芸人でも難しい。朝日新聞内部では多少の葛藤はあったのだろうが、電通が仕切るテレビ朝日が安倍晋三の私物であることは普通の人間なら常識だから、ここはなるほどと頷くしかない。横田早紀江のワンパターンな「めぐみちゃん」アジテーションにも倦み飽き始めた国民は少なくないだろう。これは何かと言うと、国民が戦争に飽き始めたということである。私は一年前に「戦前と戦中の間」という記事で、北朝鮮拉致問題が現代の満州事変であることを述べた。この比喩と洞察は我ながら正鵠を射たものだと思っているが、要するに北朝鮮拉致問題というのは北朝鮮との戦争であり、われわれ戦後の世代が初めて経験する「戦時中」体験なのだ。そして開戦からすでに四年が経とうとしていて、今、われわれ国民が感じ始めているのはまさに「厭戦気分」なのである。勇んで戦争を始めたものの、目標である勝利を得られず、泥沼の膠着状態になり、大本営だけが「勝った勝った」と騒いでいるのだ。
北朝鮮との今回の戦争の目的は拉致被害者の救出や奪還ではない。目的は憲法改正である。国内政治が目的であって北朝鮮はただの道具だ。最近思い始めたのは、どうもこの謀略には北朝鮮も一枚噛んでいるフシがあって、安倍晋三が裏で出すカネの見返りに北朝鮮が安倍晋三に協力しているのではないかという疑念である。例えば、その気になれば、蓮池薫が北朝鮮で何をしていたのかについて北朝鮮は真実を暴露することができるはずだが、北朝鮮は黙ったまま何も言わない。拉致被害者に関する情報は日本の右翼に任せている。そして北朝鮮に対する経済制裁というのは本当に欺瞞そのもので、国内では共産党を含めた全党派が二年前から経済制裁に賛成していて、国会でも決議を上げ、マスコミもこれだけ毎日騒ぎ煽っているのに、日本政府は北朝鮮に経済制裁しない。経済制裁に反対する勢力など誰もいないのに、政治的障害は何もないのに経済制裁しない。外交を仕切っているのは安倍晋三なのに経済制裁しない。
なぜ右翼は安倍晋三を批判しないのだろう。おかしくないか。今回、横田早紀江がブッシュ大統領と面談するという情報は、横田早紀江が国防総省を訪問した4/26に国防総省高官から伝えられた。日本を出発するときはスケジュールは固まっていなかった。政府がネゴしていたはずだ。私はこのブッシュ面接と国防総省の3兆円発言はリンクしているのではないかと疑っている。ローレス国防副次官による「日本負担は3兆円」の発言が同じ4/26。4/23に額賀福志郎とラムズフェルドが会談して合意した金額は、そのときの報道では日本側負担総額2兆円だった。2兆円でも絶句するふざけた数字だが、三日後にいきなり1兆円が上積みされて日本中が驚いた。人を舐めきった話だが、ローレスの発言に何の根拠もないわけではないだろう。ワシントンで金額を交渉したのは額賀福志郎だが、実際に遠隔操作しているのは東京の安倍晋三である。安倍晋三が国防総省の要求に応じて、1兆円を上乗せして横田早紀江とブッシュ大統領との会談を実現したのではないか。1兆円で大統領会談を買ったのではないか。
日本は北朝鮮と戦争している。戦時中だから英雄である横田早紀江に喝采しなくてはならない。戦費として米国に「拉致会談費用」をありがたく1兆円払わなければならない。横田早紀江を批判する者はアカのサヨクの反日の非国民である。ネット右翼は総力を挙げて非国民ブログを撲滅しなければならない。
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竹島と日本海の交換 - 島の領有権を放棄して海の名称を守る
http://critic2.exblog.jp/3320213/
2006-04-28T23:30:00+09:00
2008-07-15T19:44:14+09:00
2006-04-28T14:52:07+09:00
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竹島問題・日韓関係 (7)
結論から言うと、竹島の領有権を韓国に譲渡して、その交換として「東海」の地名表記を永久に放棄させるというのが私のプロポーザルである。竹島領土と日本海表記の交換。韓国国内の全ての地図表記を「日本海」と書き改めさせ、日本海を和解と友好の海にする。竹島(獨島)東南沖10キロの海上にEEZ(排他的経済水域)の境界線を引き、そこから朝鮮海峡中央に延長線を引いた直線を日韓の国界とする。手元の地図で確認すると、現在、鬱陵島と竹島の間に引かれている日韓国界線は、この場合、75キロほど隠岐島方面すなわち日本寄りに移動する。地図で見ても分かるとおり、竹島はまさに日本と韓国の真ん中に位置していて、日韓の中間に線引きする場合は竹島の上に線を引くのが都合がよく、EEZの境界線としてはこの考え方を採用するのが妥当だろう。竹島は断崖絶壁の孤島であり、人も住めず、土地利用は難しく、島そのものに経済的価値はない。まさに韓国が言うとおり象徴的な意味しかない。
経済的価値は周辺海域の水産資源のみであり、島根県の漁業関係者が求めているのも竹島の土地利用権ではない。経済水域で折り合えるならば、象徴的価値としての竹島は韓国に譲り渡しても問題はないのだ。その代わり、まさに象徴的価値としての日本海の名称は日本の要求を貫徹する。両名併記は許さない。外務省のホームページには「日本海呼称問題に対する日本政府の取り組み」のサイトがあって、ここで詳しく問題の経緯を知ることができるが、 一読して、韓国側が90年代以降ジワジワと実績を積み重ね、欧米で「東海」の呼称を普及浸透させてきた過程を窺うことができる。韓国側の攻勢は特に2000年代に入って顕著な成果として現われ始めていて、例えばマイクロソフト社の「百科事典エンカルタ」では二つの呼称を併記していて、外務省の抗議に対しても、第一義的呼称を「日本海」、第二義的呼称を「東海」をするという見解を回答している。単一表記に修正しなかった。深刻な現状である。
こういうマイクロソフト的な動きが既成事実になる。外務省が日本海呼称の防衛のために努力しているのは分かるが、あと十年経ったら果たして状況はどうなっているか。この問題の構図を典型的に示しているのが、今回の海底地形名にも関わるIHO(国際水路機関)で四年前に起きた騒動で、韓国側が両名併記を強硬に主張して運動した結果、IHO理事会は「日本海の名称については調整がつかない」と判断、機関が発行する「大洋と海の境界」の最新版から日本海を除外するという異例の決定を加盟国の投票で採決しようとした。日本側の抗議で投票は回避されたが、問題の解決には至っておらず、火種は残って依然として燻っている。韓国側も一切妥協する構えはなく、さらに攻勢を強めるのは確実で、また、経済大国となって国際社会で発言力を増しつつある中国の思惑もあり、IHOの理事会はこの問題で頭を悩ませているだろう。本来は技術的な性格の国際機関であるIHOが日韓外交戦の主戦場となっている。
四年前にIHOで熾烈な外交戦が繰り広げられていたとき、時恰も日韓W杯の共催の時期であり、この「東海」呼称問題とW杯開催地問題は、欧州の関係者の脳裏では同質の問題(=複雑な歴史問題が入り組んだ日韓の揉め事)と映っただろうし、W杯も共同開催にしたんだから海の呼称も両名併記でいいじゃないかと単純に考えた人間も多かったに違いない。W杯開催地問題は、われわれ日本人からすれば、どう考えても日本が過剰に妥協を強いられた格好であり、共催は確かに全体的に見ればよい結論だったかも知れないが、国際社会で韓国と正面からコンペティションすると、こういう不本意な結果を裁定されるぞという教訓になったのではないかと思われる。韓国が日本海呼称問題でやっている戦術は、簡単に言えば、まさにW杯開催地問題の決着方式と同じスタイル(思想)の標準化なのだ。日韓で揉める問題については双方妥協の両論併記でという解決提案である。これは第三者の欧米の人間には説得力として了解される。
日本人は竹島を断念し、韓国人は東海を断念する。どちらも重い。重いが、これは妥協であり、両国の国民が隣人として末永く仲良く暮らしていくための知恵である。これが一つの平和的な決着方式であり、日韓関係を次へ導くためにはこの跳躍しか思いつかない。が、これは日韓関係の問題解決としては有意味なのだが、日本外交全体から考えるときわめてリスクの大きな一手なのである。それは何かと言うと、外国によって不法占拠(実効支配)されている大きな領土が日本にはあって、それは北方領土だが、その問題解決に影を落とす懸念がある。竹島でも譲ったのだから、クリルで譲ってもよいではないかという主張が成立する余地を与えかねない。面積においても資源においても北方領土は小さな竹島とは比較にならないのだが、ある意味での「領土放棄」の外交実績ができてしまう。そこが懸念であり、簡単に竹島を放棄できない日本側の事情がある。だから戦略的に考えた場合、北方四島の返還が先なのだ。竹島問題は本当は後なのだ。
まず北方領土の全面返還を達成するため、他の周囲の外国とは問題を起こしてはいけないのである。それが戦後の日本外交の一貫した戦略と態度だった。竹島問題について、法的正当性と立場的優位性を持ちながら、決して無理に事を荒立てることはしなかったのはそういう事情がある。右翼が惹き起こした日韓問題の解決のため、悲願であった北方領土回復の課題を順位後退させなければならなくなった。つまり返還が遠のいた。今は北方領土よりも日韓関係の修復と基礎固めの方が重要だ。やむを得ない。右翼に政権を牛耳らせたからこうなった。右翼は別に韓国と戦争するつもりはないのである。改憲をしたいのだ。すべて改憲のために道具利用しているのである。韓国のナショナリズムに火を点けているのは、別にそれが面白いからやっているのではない。軍事侵略が目的ではない。再植民地化がしたいわけでもない。国内政治の目標があるのだ。改憲のためだ。改憲するために、韓国と中国の中に「反日」を醸成しているのである。
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国際司法裁判所の竹島ジャッジメント - 六カ国協議へ差し戻し
http://critic2.exblog.jp/3313078/
2006-04-27T23:30:00+09:00
2008-07-15T11:59:17+09:00
2006-04-27T12:30:37+09:00
thessalonike2
竹島問題・日韓関係 (7)
竹島周辺の海底地名問題について、日本のマスコミは4/22の日韓事務次官交渉で韓国が6月の国際会議で名称変更提案を行わないことで合意したと報じていたが、案の定、韓国側が言っていたとおり、合意はなく、名称提案する可能性を韓国の国会で外交通商省第一次官(柳明恒)が言明した。4/22の騒動の経緯は読売の記事が詳しいが、合意を拒否して席を立って帰ろうとした柳明恒を、会談場所のホテル38階から地下駐車場まで追いかけて、何やら極秘メモを渡して会議室まで連れ戻し、決裂の格好を作らないように懇請収拾したのは日本側である。結局のところ、日本側は合意したとマスコミに発表し、韓国側は合意していない立場を崩さないという「玉虫色」でその場凌ぎをしたのだが、わずか三日であえなく破綻した。ネット右翼は日本の外務省の弱腰を非難しているが、柳明恒を地下駐車場まで追いかけるように東京から電話で緊急指示したのは安倍晋三である。「弱腰」の主は安倍晋三であり、現場で交渉を担当した谷内正太郎ではない。
本当は、韓国に妥協せず柳明恒に席を蹴らせたのが谷内正太郎なのであって、ネット右翼は谷内正太郎を褒めてやるべきなのだが、相変わらず安倍晋三に騙されてか、あるいは狡猾に立ち回る安倍晋三の政治意図を汲み取ってか、外務省攻撃を続けている。谷内正太郎は安倍晋三の腹心で、今回の交渉を終始遠隔操作していたのは東京の安倍晋三だった。安倍晋三が4/22に「玉虫色」を指示したのは三つほど理由があって、第一に米国から韓国と揉め事を起こさないように指令を受けている背景があり、第二にポスト小泉の次期首相の立場を汚したくなかったという事情がある。関連して第三に、拉致で日韓協力を演出しようとする策謀があった。日本(安倍晋三)は最初から海洋調査の断行は考えてなかったのであり、測量船の境港待機も、事務次官交渉も、単に国内世論向けの政治的ポーズだった。それがポーズであり、安倍晋三が簡単に妥協することは、どうやら韓国側に見透かされていた。だから韓国は4/25の大統領談話にすぐに繋げた。
これによって拉致を梃子にした対北朝鮮の日韓協力という安倍晋三と麻生太郎の策謀は雲散霧消した。海域に実際に調査船を派遣していれば、そのまま拿捕されていただろう。そして現在の関心は、それでは国際司法裁判所で日韓が争う事態になった場合はどうなるかという論点に移っていて、ネットの一部でも詳細に予想が議論されている。韓国側も国際司法裁判所を意識して手を打ち始めたようだが、私の推測を言うと、恐らく判事が判決を出すのは容易ではなく、可能性としては、日本の民事裁判の事例のように、裁判所が調停に入って両国に和解を促すという方向になるのではないかと思われる。それが裁判所の判断で、仮に何らかのジャッジを示す場合でも、必ず両論併記の形にするだろう。判事の中には中国とロシアの外交官もいる。歴史を検証すれば、米国が51年の独自調査で竹島を日本所属と認めた事実が重いと思われるが、判断に際しては韓国の実効支配の期間の重さも考量される。単純な判決は下せず、15人の判事は悩むだろう。
私が客観的な立場の第三国の判事なら問題解決をどう提案するかと言うと、六カ国協議の場で議論して決めろと言うだろう。これは責任回避の態度だが、複雑な歴史が絡む難しい問題を簡単には結論は出せないし、どちらか一方に与して韓国からも日本からも嫌われたくない。六カ国協議は北東アジアの安全保障のために作られた新しいスキームであり、地域関係国でよく相談して調整を図るのが適当だという言い方は、すなわち理屈(一般論・仲裁論)として納得を得やすい。EUやアフリカ諸国のような部外者たちは「それがいい」と膝を打つだろう。日韓の揉め事に関わりたくないのだ。W杯開催地問題も苦労させられた。部外者にとって日韓紛争の解決案はシロクロ着けずに問題を棚上げする「大岡裁き」しかないのである。が、それでは六カ国協議で竹島問題をテーブルに上げればどうなるかと言うと、これは誰が見ても明らかなとおり、日本にきわめて不利である。韓国には北朝鮮と中国とロシアがつく。米国は日本寄りながら中立に立たざるを得ない。
敵が四カ国、味方がゼロ、中立が一カ国。勝負は見えていて、竹島問題を六カ国協議のテーブルに乗せても日本には何の利益も得られない。国際司法裁判所の調停や判決は、日本の右翼が期待するほどには日本にとって有利な結果にはならないだろう。W杯のときと同じ目に遭うに違いない。竹島の領有問題について、恐らく最も現実性がありそうなのは、日本が測量船を海域に出して、韓国が拿捕をして、紛争が明確になり、一触即発の軍事的緊張状態になり、日本が国際司法裁判所に提訴しようとしても韓国が応じないという場合で、この場合、日本は緊急な救済と韓国への制裁を求めて国連安保理に問題を付託する行動に出る。そのとき、国連安全保障理事国の多数は日本を支持し、韓国の国連海洋法条約違反を非難するに違いないが、しかし、周知のとおり、国連安保理の常任理事国は<米中露英仏>の五カ国である。中国は日本との間に尖閣諸島問題と東シナ海油田問題を抱え、ロシアは日本との間に北方領土問題を抱えている。中露二国は安保理の決定に拒否権を持つ。簡単に国連から日本に有利な問題解決が出るとは思えない。
特に中国は、強硬に日本の軍国主義復活を批判する論陣を張るはずで、そうなった場合、竹島問題を調停するはずの国連安保理が、一転して(旧敗戦国である)日本の軍国主義復活を審議するテーブルになりかねない。国際社会に竹島の領有権を認めさせようとする日本の外交営為が、逆に韓国の竹島領有を固定化し永続化させる方向に作用することは、十分にあり得る展開ではないかと私は考えている。日本が国際外交で竹島を奪還したいと考えるなら、日本は中国と仲良くしなくてはならない。それが必須条件だ。
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日韓平和の生命線としての村山談話 - 右傾化のシミュレーション
http://critic2.exblog.jp/3306890/
2006-04-26T23:30:00+09:00
2007-09-28T19:41:22+09:00
2006-04-26T15:14:57+09:00
thessalonike2
竹島問題・日韓関係 (7)
昨夜(4/25)のNHKの7時のニュースでは、盧武鉉大統領の特別談話が紹介され、関連する報道がなされたが、大統領の竹島領有に関する強硬な主張が印象的に流された後で、すぐに阿部渉アナが引き取って、「この談話の真意は何でしょうか」とソウル支局長に振り、例によって、「統一地方選を控えているため」とか、「一年前に大統領府のHPで対日姿勢が弱腰だと批判されたから」という理由説明に収めていた。最近の日本のマスコミは、韓国や中国から靖国問題や歴史認識で批判されるたびに、すぐに「その思惑は」とか「その真意は」という捉え方に報道をスライドさせて、問題の本質から逃げようとする。批判を批判として受け止めない。何か別の国内政治上の目的や意図があって、その手段や捌け口として日本の靖国問題や歴史認識が利用されているという認識の仕方で報道を纏めている。重大な二国間の外交問題を外交問題として正面から受け止めようとせず、本質を逸脱した別の問題にスリカエて説明をゴマカシている。自己欺瞞している。
日本側に原因のある重大な外交問題が発生しているのに、問題を正視せず、それを不当に矮小化し、責任を転嫁して、相手国の内政問題に解消して済ませている。問題から逃げていて、問題のスリカエで自己正当化し、国民を自己欺瞞に導いている。卑劣で狡猾な政治態度であり、何の問題解決にもならず、相手国の不信と憤怒を増幅させるだけだ。中国の反日デモのときもそうだった。中国の民衆の不満の捌け口だと言ったり、共産党がガス抜きに利用などという理由づけを加えて、日本の右翼とマスコミは問題を解説し納得していた。それを自分の問題だとは捉えず、原因が日本にあることを言わなかった。日本人はいま自分自身を見つめる正常な理性を失っている。集団的狂気の中で一人一人が自己欺瞞して現実から目を逸らせている。小泉首相は傲慢にも韓国に対して「後で後悔するぞ」と言い放ったが、後悔するのはどちらだろうか。
その韓国の統一地方選はすぐに終わって結果が出る。もし仮に盧武鉉大統領の今回の特別談話の「真意」が、NHKが報道するとおり選挙目的の一時的なものであったのなら、選挙が終わった後で大統領は態度を一転させて、日韓友好の方向に外交の舵を取るはずだが、そうなるはずだが、そんな事が果たしてあるのだろうか。あまりにピンボケした見え透いた欺瞞報道ではないか。この政治は決して一時的なものではなく、問題が滞積された挙句の覚悟と決断の国家的選択なのだ。現在の日本の「嫌韓」状況が大統領府の情報分析の中に入ってないはずがない。日本の情勢の変化には誰よりも韓国は敏感であり、正確なアンテナとセンサーを持っている。日本の「嫌韓」が滞積された重層的で構造的なものであり、政権とマスコミと国民意識を固く押し包み、簡単に覆せない思想的常態になって日本の外務省を方向づけていることを大統領府は理解している。
正確なアンテナとセンサーを持っていなければ、日本の情勢分析を少しでも見誤れば、甘い状況判断で看過していれば、韓国は再び日本の侵略によって国を失う危機に瀕するのだ。これは韓国の国民の誰もが持っている共通の観念だろう。日本は侵略によって他民族を皇民化した経験はあるが、外国の干渉を受けて国家を分裂させたり国家を滅亡させた経験がない。韓国にはそれがある。侵略は平時の外交から始まるのであり、すべて合法的な既得権と既成事実の積み重ねの上で最終的に主権は奪い取られる。近い過去に亡国の苦い経験を持つ韓国が、主権の防衛に神経質になるのは当然で、特に相手が日本であればなおさらのことである。それが自然で、そうでなくてはならないし、特に北朝鮮と韓国の二つに国家が分断されている現在、韓国にとって主権の防衛はどれほど緊張感と警戒感を持って身構えていてもおかしくない重要事である。
具体的に言おう。例えば日本が憲法を改正する。防衛と称して戦争できる国になる。国民から支持を集めている石原慎太郎や安倍晋三が言っているのは、北朝鮮の拉致は侵略であり、国家主権の侵害だから、直ちに積極的防衛行動に出よということであり、戦闘機と揚陸艦による武力行使で拉致問題を解決せよという強硬論である。金正日政権の武力打倒と占領軍部隊による拉致被害者探索と救出。ネット右翼の「常識」と「正論」だが、そういう最悪の方向に進む可能性も最早ゼロとは言えない。もしこの想定がそのまま実現すれば、朝鮮半島(韓国の国土)の北半分に日本の自衛隊が進駐し、北半分を日本が軍事占領するという異常事態になる。獨島の主権どころではない。実際には、米国と中国の動きがあり、日本だけで北朝鮮と戦争する図はあり得ないが、スタテイックなシミュレーションとしては十分に考えなければならない近未来の軍事である。
韓国の未来と安全保障は、日本の右翼的動向が今後どうなるかに大きくかかっている。私が韓国の大統領でも、同じ行動を選択し、同じ警告と懸念を日本国民と韓国国民に発しただろう。日本が北朝鮮に武力行使すれば、自動的に韓国は日本と戦争状態に入る。避けられない。かりそめにも日本による北朝鮮への武力攻撃を座視したならば、その政権は一日で転覆させられるだろう。正規軍より先に義勇軍が38度線を突破、北に入った地上軍(陸自)と激突する。韓国の平和を守るためには、韓国の国民の生命と財産を守るためには、日本を憲法9条と村山談話の線に止めねばならない。これ以上の日本の右傾化を阻止しなくてはならない。それが韓国の指導者の使命であり責任である。だからこそ、韓国大統領府は日本政治の野党なのであり、日本で護憲を主張する者は、同じ平和の利害を共有する者として、盧武鉉大統領の行動を支持しなければならないのである。村山談話は両国国民の平和の生命線なのだ。
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盧武鉉談話の正論 - 韓国は日本の右翼に妥協してはならない
http://critic2.exblog.jp/3300058/
2006-04-25T23:30:00+09:00
2006-07-03T13:53:32+09:00
2006-04-25T14:48:14+09:00
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竹島問題・日韓関係 (7)
盧武鉉大統領が竹島問題に関する特別談話を発表した。盧武鉉大統領が日韓関係について公式に主張を発表するのは初めてであり、韓国の大統領が、国内で、日韓関係についてメッセージを発信するのも恐らくこれが初めてだろう。しかも単なる書面のリリースではなく、テレビで生中継しての異例のものだった。テレビで確認したかぎり、盧武鉉大統領は下を見て文書を読み上げるのではなく、正面のカメラに向かって演説しており、今回の発表に対する並々ならぬ決意が示されている。しかも中身がきわめて強硬だ。これまで、外国の政治指導者が、特に直後の訪日等の予定もないのに、日本との外交上の問題について自国内で特別な談話を発表するのを聞いた経験がない。異例中の異例のものである。特に盧武鉉は大統領であり、単なる政治指導者ではない。国家元首である。日本であれば天皇陛下の地位にあたる。隣国の元首が、国家を代表して、日本の政府と国民にあてて重大なメッセージを発表した。襟を正して傾聴すべきだ。
この特別談話は前日から予告されていたものであり、朝の9時半にテレビで生中継というスケジュールも半日前に明らかにされていて、ニュースとして日本国内に伝わっていた。だから私もNHKの衛星放送が番組を編成して中継を入れるだろうと予想して、期待して待機していたのだが、NHKは中継放送を入れなかった。これは非常に不可思議な事実であり、事の真相を訝しんでしまう疑惑である。安倍晋三から手が回って中継を阻止されたのだろう。例の従軍慰安婦の番組の一件があり、また民営化と不祥事で突き上げられて竹中平蔵の私的諮問機関に弄られている最中であり、権力者の安倍晋三にNHKは頭が上がらない。しかし、このような日本にとって重大な演説を生中継しないということがあるだろうか。ブッシュ大統領のイラク戦争開戦演説や戦勝記念挨拶は、あれほど丁寧に生中継していたのに。正午のニュースではきわめて短く、しかも竹島に関する部分だけを編集して、攻撃的な印象になるように意図的に情報操作をしていた。
大事なのは、単に竹島の領有権を主張した部分だけではなく、現在の日本の右傾化状況全般を正面から批判したところにあり、すなわち総理大臣の靖国神社参拝や反動的な歴史教科書の採用などに顕著な、現在の日本の「過去の侵略の歴史の美化」の問題状況が厳しく批判されている点である。この大統領の批判は正鵠を射たものだ。本来なら、日本の野党や、ジャーナリズムや、アカデミーが、政権と国民に向かって正しく言わなければならない事である。国内に野党が存在せず、政権を監視するジャーナリズムが消えたため、隣国の指導者がその代わりを努めてくれている。盧武鉉大統領の認識と発言は、まさに日本の政治状況を映す鏡なのだ。日本の政治がここまで異常で危険な水準に達しているから、非常を告げる警鐘が鳴らされているのである。日本人が韓国人に向かって言っている「独善的ナショナリズム」は、実は鏡に映った自分の顔に他ならない。村山談話を守って日韓友好をしていれば、このような事態には決してならなかった。
現在、右翼掲示板等に書き散らかされているネット右翼の韓国に対する侮辱と悪罵の言語群は、まさに眩暈と嘔吐を催すほどの常軌を逸したものであり、偏狭で蒙昧で醜悪なファナティシズムの常態化であり、日本人であることを羞恥してしまうような程度と内容のものである。「嫌韓」という言葉は状況を正しく表現していない。嫌韓ではなく、蔑韓であり、嘲韓である。露骨で暴力的な差別感情の唾棄であり、民族に対する偏執的な嗜虐衝動の横溢である。ネットが始まった95年頃はこのような厭わしい病的な思想状況はなかった。97年頃から右翼掲示板の隆盛とともにこのような傾向が勢いを増し、年を追うほどに酷くなり、それが多数化し、やがて政権がその性格に変わり、テレビと新聞までその右翼的性格が常態になった。右傾化を批判する人間は、左翼のレッテルを貼られてマスコミの世界から放逐された。政権と右翼に追従し、左翼批判の恫喝を年中吐いて、国民の常識を右へ右へと暴力的に扇動する人間しかその世界で生きられない。
盧武鉉大統領の主張は基本的に正しい。村山談話の基準に沿ったもので、司馬先生が生きておられたら間違いなくそう言うだろう。大統領の談話が不当であると言うのなら、日本政府が十年前に発表した村山談話も不当である。昨年、麻生太郎が外相になって、恐らく米国の指図もあったのだろうが、攻撃目標を中国一国に絞って、韓国とはなるべく協調関係を修復しようとする動きがあった。靖国参拝問題でも、韓国からの批判については無視して、中国からの批判に対して猛然と噛みついて攻撃するという術策を小泉政権はやっていた。拉致問題での日韓協調の策動もその一つだったが、あえなく一蹴されたということだろう。日本のブログで韓国のマスコミに呼びかけるのも妙だが、韓国の新聞は盧武鉉大統領を批判してはならない。主権と独立の防衛は国家と民族にとって何より重要なものだ。ホーチミンは「民族の自由と独立ほど尊いものはない」と言った。結束して日本の右翼排外主義と対決せよ。歴史認識での妥協は再びの侵略の容認に繋がる。
日本右翼による韓国の民族と歴史に対する侮辱と嘲弄と卑蔑を許してはならない。
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千葉補選の勝利者はマスコミ - 二大政党制護持のプロパガンダ
http://critic2.exblog.jp/3291696/
2006-04-24T23:30:00+09:00
2006-04-25T09:38:32+09:00
2006-04-24T11:47:56+09:00
thessalonike2
民主党・ ポスト小泉 (15)
今回の衆院千葉7区補選の選挙結果を誰よりも喜んでいるのは、小沢民主党への期待を煽り、二大政党制の護持のために公共の電波で必死にプロパガンダを続けたマスコミだろう。今朝の岸井成格の安堵した表情が印象的だった。この選挙で敗北すれば、自分たちが人生を賭けてこの国に構築してきた神聖な二大政党制の政治体制が崩壊する。「政治改革」は失敗だったという結論になる。民主党代表選挙前後からのマスコミの二大政党制擁護のプロパガンダは凄まじかった。私が驚いたのは、代表選の直後に上がった千葉7区補選の「民主党候補優位」の情勢分析報道である。共同通信だったか、毎日新聞だったか忘れたが、4/10か4/11頃にはその世論調査結果が速報されていた。代表選が4/7で、そこから猛烈な小沢支持キャンペーンが始まり、一瞬の裡に民主党の支持率が11%から18%にハネ上がったが、さらに間髪を置かずに千葉7区補選の「民主党候補リード」報道が情報発信された。マスコミの力は実に絶大だ。
今回、千葉で元キャバクラ嬢の民主党候補を勝利させたのはマスコミの力以外の何物でもない。投票の実態を見ても歴然としているが、昨夏に小泉自民党に投票した人間が、今度は小沢民主党に鞍替えして投票している。昨年は「郵政民営化」にコンビンスされて自民党に一票投じた同じ人間が、わずか半年後に「負け組ゼロ」のスローガンに共感賛同して民主党に一票入れている。わずか半年。「郵政民営化」の政策とは、「負け組」を大量生産し、階層間格差を拡大し、それが不可逆的で半永久的なシステムに固定するまで新自由主義政策を推進する改革政治の代名詞の言葉だった。郵政民営化法案が選挙前に審議されている途中でも、小泉首相と竹中平蔵の新自由主義路線は格差拡大政策だからよくないという批判は野党議員から何度も出されていた。思い出して欲しい。けれども、国会で、小泉首相はその批判を一蹴し、従来の日本があまりに悪平等社会であり、社会主義だったから日本が駄目になったと堂々と反論していた。
小泉首相の格差歓迎論は決して最近になって言い始めたものではなく、日本社会の悲惨な格差実態(貧富拡大と階層固定)はこの半年間に現出したものではない。郵政民営化の是非を問う選挙は、明らかに、中身として、格差拡大政策の是非を問う選挙そのものだった。しかるに、マスコミは参議院で否決された郵政民営化法案を絶対的な正論として全局を挙げて支援報道し、郵政民営化に反対する議論を亡国の邪論として放送から締め出し、小泉自民党を圧勝させた。選挙の結果は最初から決まっていた。マスコミが格差拡大を積極的に容認し推進したのだ。格差反対の声は、改革を否定する時代錯誤の社会主義的異端論として卑蔑され、悪罵され、排斥された。わずか半年前のことだ。結局のところ、今度の千葉補選もマスコミが勝利したということであり、有権者がマスコミに踊らされて、マスコミの宣伝扇動のままに一票を投じたということに過ぎない。マスコミが投票せいと言う方に投票するのである。計算どおり、台本どおりのマスコミの勝利だ。
今回の民主党候補の勝利を小泉改革に対する批判票だとか、国民の意識の変化だなどと評価するのはマスコミに踊らされている証拠であり、自分自身がマスコミに洗脳されている事実に無自覚なだけだ。半年後にはマスコミは別のことを言い、別の争点で国民を政治誘導している。今回、マスコミが死守したのは二大政党制であり、それは米国による経済支配と世論操作を貫徹できる現在の体制の意味に他ならない。ここで民主党が敗北すれば二大政党制の幻想が崩れ、政権交代のユートピアの虚構が暴露され、国民が新しい政治体制の可能性(革命)の方向に向かう。それを阻止するため、再び民主党に期待を持たせるために、昨年は郵政民営化を咆哮していた連中(岸井成格・みのもんた)が、踵を返したように二大政党制維持のキャンペーンを張ったのである。どうせ小泉首相は9月で退陣するのであり、ここで一議席自民党の議席を減らしたところで何の影響も出ない。格差が政治の関心になっているのは今だけだ。格差問題はいずれ背景に退く。
ポスト小泉の政治の争点は憲法であり、一年後の参院選の争点は憲法改正になる。この点は前にも予想を述べたが、憲法改正を争点として突きつけられたら、民主党は郵政民営化のときと同じように動揺して同じ矛盾した曖昧な対応にならざるを得ない。すなわち党内に賛成派と反対派の二派を抱え、意見集約できず、外向きには消極的賛成を言わざるを得ず、その中途半端な態度をマスコミに叩かれて国民の支持を失うだろう。格差問題についても本当は同じで、党内には前原誠司のように改革競争路線を堅持している松下政経塾卒の過激で強硬な新自由主義者がゴロゴロいる。新自由主義、すなわち格差拡大路線を党の基本政策として据えなければ、少しでも社会民主主義的な路線にシフトすれば、少なくとも財界と米国の支持は絶対に得られない。財界と米国の支持を得られないということは、国政選挙本番でのマスコミの支持も得られないということを意味する。リアリズムはそこにある。だから二大政党制を維持する限り、日本の格差はますます拡大する。
小沢一郎の「格差是正」はガス抜きの慰めであり、「共生社会」は票集めの看板標語である。二大政党制を破砕する「革命」を展望しない限り、マスコミ政治を突破しない限り、われわれは格差社会を止めることはできない。必要なのは民主党のポピュリズムの標語に踊らされることではなく、国民が政治を革命することだ。
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盧武鉉大統領の正論とその前提 - 日韓基本法としての村山談話
http://critic2.exblog.jp/3272584/
2006-04-21T23:30:00+09:00
2008-11-11T15:33:51+09:00
2006-04-21T17:11:29+09:00
thessalonike2
竹島問題・日韓関係 (7)
国連海洋法条約が、排他的経済水域での船舶の航行の自由と水路測量などの科学的調査の自由を全ての国に認めているにもかかわらず、日本の測量船による海洋調査に対して韓国政府が拿捕を含む厳しい姿勢を示している根拠がよく分からなかったのだが、調べてみると根拠は韓国の国内法だった。仮に測量船が海域で拿捕され、日本政府が事件を国際海洋法裁判所に提訴した場合は、韓国政府による国際法違反となる。が、韓国の並々ならぬ決意は、アナン国連事務総長あてに「宣言書」を送付して、日本の海洋調査計画を国連海洋法条約に基づく紛争解決手続きの適用除外案件にするよう求めるところまで手が打たれていて、仮に紛争が勃発した場合、それは単なる偶発的な事故ではなく、国家主権の防衛そのものである旨が示されている。提訴を受けた国連も、緊迫して事務処理的な判決や裁定は出せない状況になるだろう。現在、竹島(獨島)はまさに韓国の国家と国民の統合の象徴であり、中国の万里の長城と同じであり、日本の皇室と同じ意味の存在である。
盧武鉉大統領は、4/20の演説で「過去の侵略戦争で得た占領地に対する権利を主張する人たちがいる」と述べ、「ひたすら『和解しよう』との言葉だけでは解決できない難しい状況に直面している」と日韓関係についての厳しい情勢認識を示した。この発言は4/20のNHKの7時のニュースでも放送された。大統領の主張は一年前に発表した談話から変わっていない。私はこの談話と大統領の姿勢を基本的に評価し支持する立場であり、私も一年前の主張から特に変わってはいない。が、竹島が「侵略戦争で得た占領地」であると定義してよいかどうかは微妙で、日露戦争の性格づけの問題とも絡み、簡単に肯首できないし、竹島を日本の領土であるとする外務省の主張も十分に正当で説得的であると私は考えている。だから簡単に言えば日韓双方の言い分とも尤もなのであって、領土の問題としては、私自身は「紛争地域」としてそのまま現状を継続させる従来の外務省の対応でよかった。この問題が重大な外交問題になったのは、昨年の「竹島の日」条例の制定からである。
政権が右翼に牛耳られ、外交が中韓と激しく敵対する右翼的方向にシフトされたために、この五年間の間に日韓関係と日中関係はボロボロの状態になった。その責任は全面的に日本の側にある。ところが日本のマスコミは政権を批判しようとせず、韓国と中国を批判し始め、小泉政権を擁護する論調を機軸に据えるようになった。いま政権を批判する報道番組は筑紫哲也の「ニュース23」だけだろう。右翼ファシズムだ。一年前と較べても、その傾向はより顕著で、ネットの中も狂暴で激越な嫌韓一色だが、盧武鉉大統領の対日批判の正論を支持する声は殆ど見られない。ブログは筑紫哲也と同じく異端的で例外的な存在になった。日本のマスコミは、隣国の元首が日本国民に呼びかけるメッセージに真面目に耳を傾けようとせず、一方的にそれを「国内向けの人気取り」だと歪曲し、「選挙目当ての点数稼ぎ」だと誹謗して不当に矮小化するばかりだ。日本の政権と国民の政治意識が日を追う毎に右傾化の度を深め、戦前へと逆戻りしている状況は誰が見ても明らかな社会的事実である。
それは東アジアの人間にとってはきわめて危険な現実であり、警戒して警鐘を鳴らすのは当然の対応だろう。盧武鉉大統領による日本に対する憂慮と批判の発言は、外交として正鵠を射たものであり、そう言い得る根拠は、日韓関係の憲法とも言える村山談話にある。日中関係の基本法は72年の日中共同声明だが、日韓関係の基本法は95年の村山談話である。すなわち、「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします」「戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません」。
十年前にこう言っているのだ。韓国に対する侵略と植民地支配の歴史を反省し、謝罪を表明し、二度と独善的なナショナリズムには戻らないと誓っているのである。これが二国間の基本的前提だ。靖国神社を参拝する行為こそが独善的なナショナリズムの行為そのものではないか。村山談話を堅持し尊重しながら靖国神社に参拝するという態度はあり得ない。どのように言い繕ってもそれは欺瞞であり嘘である。どちらかを捨てねばならない。村山談話を堅持するのなら靖国参拝は放棄しなければならない。靖国参拝を続けるなら村山談話は破棄しなければならない。そして日本の現在の状況は、事実上、政権もマスコミも国民も、村山談話(日韓基本法)を廃棄した状態にある。であるなら、韓国の政府と国民にとって日本はまさに現実的脅威そのものであり、靖国的な侵略国家・戦争国家の前段階であり、韓国の政治指導者がそれに対して警戒と警告を発しない方が異常というものだろう。日韓関係を前向きに再構築するためには村山談話の基本に正しく戻らなくてはいけない。政府だけでなく国民も。
そうでなければ、近い将来、日本は韓国とも冷戦状態になる。一触即発の軍事的緊張関係になる。
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護憲派の愚行と自失 - 人権派弁護士における政治的緊張感の欠如
http://critic2.exblog.jp/3265670/
2006-04-20T23:30:00+09:00
2008-04-22T13:41:47+09:00
2006-04-20T16:37:36+09:00
thessalonike2
山口県母子殺害事件 (6)
弁護士法はその第1条で「弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする」と定めている。一般に弁護士の仕事は、単に裁判で弁護を引き受けた依頼人の利益をマキシマムに追求獲得し、権利の実現に尽力貢献することだと考えられていて、今回の問題でもそのような皮相的な理解が横行しているように見えるが、無論、それは弁護士の使命を見失った誤った認識である。弁護士の使命は二つ、人権の擁護と正義の実現である。今回の安田好弘と足立修一の問題は、二人が被告人の人権の擁護にのみ妄執狂奔して、正義を実現する弁護士の使命を忘れ、無視逸脱していることである。ところで、この社会正義の実現は、弁護士が単独に負う使命ではなく、司法に携わる者の全てが等しく使命として受け持つものである。したがって刑事裁判は、裁判官と検察官と弁護士の三者が共同の作業で社会正義を実現するものであり、単に対立する二者と判定者で勝ち負けのゲームを演じているのではない。弁護人は弁護を通じて社会正義を実現しなければならない。
安田好弘と足立修一の今回の所業は、社会正義の実現の弁護士の使命を最初から放棄していて、単にこの事件を「死刑制度廃止」の政治目的のために宣伝利用している。だから誰からも支持されないのだ。二人は自分の行動を崇高な信念に基づくものとして確信しているのだろうけれど、二重の意味で根本から倒錯していて、一つはこの行動が「死刑制度廃止」の世論や関心に大きく悪影響を及ぼす結果に導くであろうという政治的失敗と、もう一つは弁護士の地位や裁判制度そのものに対する国民の不信を惹起増幅せしめたことである。前回の上告審口頭弁論欠席も、国民が納得できる合理的理由はなく、明らかなルール違反である。今回の一審二審の事実認定に異議を差し挟む強引なやり方も、単に裁判の遅延と時間稼ぎを狙ったもので、麻原彰晃の延命のために裁判を混乱させている卑劣な手法と本質的に同じである。弁護士の特権を利用して、正義を捻じ曲げ、被害者遺族の人権を踏み躙り、「死刑拒絶」のイデオロギーを貫徹しようとしている。そのように見える。
二人とも、自分の主張していることが詭弁であり、社会の常識や道理に合わない姑息な便法術策であることは了解しているはずなのだ。今回の件も、死刑か無期かが争われる世間注目の裁判だから、そこに無理やり介入して、騒動を起こして、「死刑制度反対」を訴求するデモンストレーションの場にしたのである。二人はその弁護(と言うより政治)活動によって福田孝行の生命を数年間長く延ばすことができるのだが、その分、事件の解決を求める被害者遺族の救済を数年間先延ばしにする。この二人のやり方を国民は支持しない。私も支持しない。税金の無駄であり、時間の無駄であり、被害者遺族の人権侵害であるという主張に同意である。広島の弁護士である足立修一は「九条の会」のメンバーでもある。間もなく憲法記念日であり、これから教育基本法の改正や国民投票法案が国会で論議されるのだが、この問題は憲法をめぐる世論に影響を及ぼすだろう。拉致問題と同じような世論構図がマスコミによってオーガナイズされるはずで、現にネットの中ではバッシングが始まっている。
人権派弁護士の非常識と妄動を攻撃することによって、彼らの政治的立場の全体を異端化し、排撃する世論工作である。その意味では、今回の二人の行為は明らかに護憲派にとって「自失」であり、少数派に追い詰められつつある護憲派の立場をさらに不利に追い込むものである。左派の立場で人権擁護や死刑廃止を一般論として唱えてきた者でも、今回の安田好弘と足立修一の愚行を擁護できる者はいないのではないか。多数を説得することは絶対にできない。支持を調達することは不可能だ。せいぜい左翼だけが固まった身内の狭い空間で「少数意見」を言い合って納得し合う程度に止まる。外の一般社会では、護憲派=人権派弁護士=非常識=異端という方程式の観念が醸成され、通念化され、簡単に否定できなくなり、逆に改憲派=社会正義=正論=多数派という社会常識の方程式が固められてゆく。今回の安田好弘と足立修一の所業は正当化できないのだ。二人はそれを政治として敢行したのだろうが、完全にマスコミの政治によってリバースをかけられ不当化された。
二人の軽挙妄動は護憲派に深刻な打撃を与える失策であり、護憲派から改憲派に転向しようとしている(元左翼の)マスコミ文化人たちに格好の口実を与える好餌となったに違いない。転向の季節は果てしなく続く。改憲のその日まで続く。護憲から改憲への改宗(思想転向)を自己正当化するためにはイデオロギー的触媒(口実)が必要であり、人権派弁護士の妄動とそれへの国民的反発は、北朝鮮拉致問題に続く第二の効果的な思想的槓桿になる。そういうことを足立修一は自覚的に考えて、自問自答して、その上で福田孝行の弁護をどうするか考えなければならなかったはずだが、一審二審の事実認定が誤りだったというような荒唐無稽な論法で死刑回避を狙ってきた足立修一の戦術は、政治としてあまりに稚拙で惨憺たるものであり、護憲を主張する者の心を傷つけ、政治的立場の説得力を削ぐ最悪のものだったと言える。自殺行為だ。左翼の緊張感の欠如と言うか、「空気の読めなさ」というものを感じる。政治的に敗北する側は、このように正常な理性と現実感覚を喪失するのだろうか。
護憲派の愚行と自滅を見ながら護憲の説得力を作るのは本当に至難の業だ。
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山口県光市母子殺害事件(2) - 良妻賢母だった23歳の弥生さん
http://critic2.exblog.jp/3258643/
2006-04-19T23:30:00+09:00
2008-04-22T13:39:28+09:00
2006-04-19T16:53:39+09:00
thessalonike2
山口県母子殺害事件 (6)
二日間ほどマスコミが事件を集中報道して、これまでになく数多く本村洋の発言に接することができた。顔つきが大人に変わり、刺すように鋭かった昔の雰囲気は少し変わったが、相変わらず言葉が素晴らしい。本村洋の言葉は本当に素晴らしい。言葉が常に理路整然としていて、無駄がなく、分かりやすく、聴き入るたびに興奮と感動を覚えさせられる。聴きほれる。納得と共感で心が満たされる。何もかもが絶望的なこの日本で、本村洋は私にとって宝石のような美しい貴重な存在であり、この若い、優秀な優秀な優秀な優秀な男を、国会議員にしたいと希(こいねが)う。日本国憲法が想定する国民代表の理念型は、本村洋のような人間的資質をこそ具体要請しているのである。できればこの男を総理大臣にしてみたい。今すぐに日本国の運営を任せてみたい。昔、菅直人が厚生大臣になって、薬害エイズ事件の犠牲者の遺族の前に立ち、遺影に向かってひざまずき謝罪をしたことがあった。「大臣、この子に謝罪して下さい」という悲痛な訴えの言葉が耳に残っているけれど、
それを見たとき、私も若かったが、「菅直人よくやった、総理大臣にしてやるぞっ」とテレビの前で叫んだことを覚えている。日本ではあまり見ることのない、感動的な政治の場面だった。あれから十年経ち、今では菅直人を総理大臣にしてやりたいなどとは全く思わない。それっきり、総理大臣にしたい男は私の中に一人としていなかったが、今は本村洋を内閣総理大臣にしてみたいと願望する。憲法はきっと歓迎するだろう。憲法の心を持った天皇陛下も歓迎するだろう。今朝はTBSの「朝ズバ」に生出演して、被告人の福田孝行に対して、「謝罪の言葉は裁判が終わったときに聞きたい」と言っていた。「極刑の判決を受け入れ、自分の命で罪を償って、あの世で妻と娘に謝罪をして欲しい」と言っていた。「この世での謝罪は謝罪にはならない。私は被告人に謝罪は求めておらず、あの世で妻と娘に存分にしてもらいたい」と。隣で話を聞いていた土本武司は、「正論だと思いますね」と頷き、日本の刑事裁判の判決における権力主義と抑制主義の問題を指摘していた。
刑法の基本思想が応報刑論であることも語っていた。土本武司は、同じ検事出身の法曹解説者の中でも、今後の捜査や裁判の予想といった具体論の方面の話題ではなく、むしろ刑法学者として理論的学問的な中身でコメントを埋める方を好む。横で語る本村洋に触発されたように、刑法総論の基礎を説き始めていた。刑事事件の解説はそれでよい。茶の間を法学部の刑法講義の空間に変えなければならない。本村洋はさらに続けた。「被害者の遺族は何度も警察に呼び出され、仕事も休んで事情聴取を受けさせられる。長い時間を耐え、答えたくない苦痛な質問に答え、認めたくない調書に署名するのは、検察がきっと仇を取ってくれると信じているからだ。検察に全面協力する以外に被害者の遺族には相手と戦う手段がないからだ。裁判の間、犯人と弁護士が何を言っても、傍聴席の被害者遺族は何もできない。黙って我慢してジッと彼らの話を聞くしかない。それを耐えられるのは、裁判が復讐の場であり、最後に遺族に代わって復讐を遂げてくれる日を待っているからだ」。
許せないことは本当に多くあり、安田好弘と足立修一の問題については稿を別にするが、一審の山口地裁で裁判を担当した判事の渡辺了造は、法廷に被害者の遺影を持ち込もうとした本村洋に対して、判決を言い渡す前に、被害者の顔が見えると被告人の人権を侵害するからという理由で写真に布を被せるよう命令している。この遺影事件は当時も大きな話題になった。もう一人、一審で福田孝行の弁護人を務めた弁護士の中光弘治。この男は判決で無期懲役が出たとき、何と被害者遺族が傍聴席にいる前でガッツポーズをして見せたと言われている。この中光弘治の熱心な弁護によって一審は無期懲役になったわけだが、この男は被告人の福田孝行について、「公判を重ねるたびに反省の度を深めている」と証言している。ところが福田孝行は、周知のとおり、拘置所の中から友人へ宛てた手紙の中で「私を裁けるものはこの世におらず」「7年そこそこで地表にひょっこり芽を出すからよろしく」と言っている。「反省の度を深めている」という弁護人証言は嘘だった。
殺された妻の弥生さんについて少し触れたい。七年前の事件発生から一審求刑の当時より、この二日間の方が弥生さんに関する情報が多く出ていて、テレビでは何枚も母と子が写っている写真がスタジオに掲げられている。それから本村洋との交換日記が紹介されている。当時は気づかなかったことだが、弥生さんという女性が実にいい感じの良妻賢母なのだ。23歳なのだが、落ち着いていて、二十代前半という年齢で想定する未熟さが表情にない。正直なところ、七年前だとこういう人もまだいたのかなと時代を思い返してしまう。現在の日本では、三十代の半ばか後半で女が子どもを産むのが当然になり、二十代の前半で子どもを持っていると、逆にこちらの方が大丈夫だろうかと不安になってしまう社会的環境がある。二十代前半で子どもを持つ母親は、何か訳ありだったり、金髪だったりする。だから弥生さんの写真を見ていると不思議であり、とてもいいものを見ている気分になり、何と惜しいことをしたのだろうという感情が自然に沸いてくるのだ。この夫婦なら、どれほど素晴らしい家庭が築けていただろう。それがどれほど日本と地域の財産になっただろう。
写真を見ながら、良妻賢母という言葉を思い出し、昔の日本はよかったなという感慨を深くした。
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本村洋の復讐論と安田好弘の怠業 - 山口県光市母子殺害事件
http://critic2.exblog.jp/3251270/
2006-04-18T23:30:00+09:00
2008-04-22T13:40:42+09:00
2006-04-18T15:44:36+09:00
thessalonike2
山口県母子殺害事件 (6)
本村洋を最初に見たのも「ニュースステーション」だった。記憶が不確かだが、99年の一審の求刑が出たときだっただろうか。事件の残忍性も衝撃だったけれど、彼が生放送のスタジオで発した言葉が鮮烈で、私の心の奥深いところに届き、彼に対して尊敬の念を抱いた。私が若い人間に尊敬の感情を覚えることは滅多にないが、この男は何と偉大だろうと胸を打たれた。当時23歳。簡単に言うと、彼がスタジオで言ったのは、「もし犯人が死刑にならずに刑務所から出てくれば、私が自分の手で殺す」という殺人予告だった。結論だけ聞けば過激で異様な報復宣言だが、それを論理的に説明する彼の弁舌が実に見事で、秀逸で、久米宏と一緒にずっと息を詰めて聞き入った。録画できなかったことを後悔しているが、忘れてはいない。それはまさに刑罰論であり、刑法総論の序章をなす法哲学の開陳だった。例えば国立大学の法学部の二年生が履修する刑法Ⅰの講義の冒頭で聴かせてやりたいような彫琢された美しい議論だった。
死刑は廃止してはならない。死刑の意味は、殺人の罪を犯した人間が、罪と向き合い、犯行を悔い、心から反省をして、許されれば残りの人生を贖罪と社会貢献に捧げようと決心して、そこまで純粋で真面目な人間に生まれ変わったのに、その生まれ変わった人間の命を社会が残酷に奪い取る、その非業さと残酷さを思い知ることで、等価だという真実の裏返しで、初めて奪われた人の命の重さと尊さを知る、人の命の尊厳を社会が知る、そこに死刑の意義があるのだ、とそのように言っていた。私はテレビの前で感動し、またそれを23歳の若さで、あれほどの悲しみと不幸と混乱の中で、毅然と整然と説得的な論理に纏めて言葉にできた本村洋に強い尊敬の念を抱いた。そして彼の復讐論に感銘を受け、彼の意志と信念を強く支持する気分になった。心を揺り動かされた。それから七年が過ぎ、事件は最高裁判決の手前まで来たが、さらに様々な問題の膨らみを抱え、予想せぬほどの過酷な試練を本村洋に与え、今日に至っている。
社会は、歴史は、全ての荷重を一人の庶民に集中して負わせ、苦しめ、耐えさせる。まるで橋田寿嘉子がドラマを作るように、橋田寿嘉子よりも十倍も苛烈に、そういうことをする。偶然に選ばれた庶民は、歴史に人間の気高さと誇り高さを証明するために、どこまでも不条理に耐えて戦う姿を見せなければならない。河野義行、須藤光男、本村洋。ノーベル賞もなく、文化勲章もなく、紫綬褒章もなく、金一封もなく、あらゆる困苦に耐えて、人間の気高さと崇高さを証明しなければならない。その犠牲によってこの社会が支えられている。本村洋の復讐論は近代法制度の欺瞞と限界を暴露し告発するものだった。またそのとき思い知ったのは、刑法が、どれほど近代法の様式を纏ったものであっても、そこにはハムラビ法典以来の復讐法の思想がそのまま原型保存されていることだった。ハムラビ法の復讐法理と聞くと、人はそこにアジア的専制国家の野蛮と粗暴を想起し、近代合理主義の対極にある因習のように捉えてしまうが、本村洋の説得によって私の見方は一転し、古代の人間の考え方こそが普遍的で合理的なものだと確信するようになった。
復讐権を独占しながら、その権利を行使せず、加害者のみを庇護し、被害者遺族の権利を踏み躙っている近代国家と法制度に問題がある。そういう根本的な問題を本村洋は提起しているわけだが、論理的にも心情的にも当然の主張であるように思われる。紀藤正樹は、最高裁上告審の口頭弁論を欠席した安田好弘をほぼ全面的に擁護し、あまり安田好弘を責め過ぎると凶悪犯を弁護する人間がいなくなるから控えるようになどと言っているが、この主張には全く賛成できない。どんな刑事被告人にも弁護士がつくのが国選弁護人の制度であるはずで、今回、福田孝行を弁護する安田好弘は国選ではなく民選だ。自ら引き受けている。また、口頭弁論を欠席して時間稼ぎを図るというやり方も姑息で卑劣きわまる。裁判制度そのものを愚弄し否定するものだ。弁護士だから被告人の量刑を軽くするべく尽力するのが当然だという議論もあるが、裁判が正義と真実を明らかにするものであり、弁護士もその司法の大義に仕える一部であるのなら、弁護活動の目的の第一は被告人の量刑軽減ではなく、正義の実現と真実の解明ではないのか。
この場合、罪を反省せず、被害者と被害者遺族を侮辱している被告人の福田孝行の量刑軽減が達成されて、死刑が無期懲役になることが、社会正義の実現になるのか。昨日(4/17)、安田好弘は記者会見の席上で事件を描いた絵を示して、被告人である福田孝行の殺意を否定、検察および一審と二審の事実認定が誤りだったという主張を繰り広げていた。被告人は一審二審では事実については争っていなかったはずだ。今頃になって、しかも先月の上告審口頭弁論を勝手に欠席しておきながら、この言い草はどういうことだろう。弁護士は何をやってもいいのか。安田好弘の行為は裁判と裁判所と国民への愚弄であると同時に、被害者と被害者遺族に対する明らかな名誉毀損だろう。本村洋は安田好弘を名誉毀損で告訴するべきだ。二十年くらい前からだろうか、凶悪事件の増加とともに、安田好弘の類(たぐい)の公共敵とも言うべき「人権派弁護士」の跳梁跋扈が目につくようになり、「人権派弁護士」の言語の意味がプラスシンボルからマイナスシンボルにスイッチした。弁護士の特権的地位を濫用して身勝手な司法妨害を平然と行っている。
判決は死刑以外にない。最高裁判決で死刑を確定させた上で、安田好弘の名誉毀損を追及するべきだ。
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法と倫理 - 規範の内面化と山口二郎の「政治改革」の失敗
http://critic2.exblog.jp/3243617/
2006-04-17T23:30:00+09:00
2006-04-26T10:15:56+09:00
2006-04-17T13:29:52+09:00
thessalonike2
山口県母子殺害事件 (6)
刑事警察(関連)法は、警察官と警察組織を絶対に法を犯すことのない正義のロボットのように想定していて、彼らが法を犯したり、犯罪行為を行ったりということを全く前提していない。それは当然のことで、その前提が崩れれば社会の秩序は維持できない。前の記事で、警察法や犯罪捜査規範に警察官自身の違法行為に対する罰則規定がない点を指摘したが、罰則規定が必要だと言われる現在の警察の実態こそが問題で、本来的に法の不備という問題ではないだろう。警察官は絶対に犯罪を犯してはならず、絶対に犯罪を犯さない完璧な正義の人間が警察官でなくてはならず、そこに例外があってはならない。だから、問題は法ではなく、警察法の中に罰則規定を設ける必要があると言わなければならなくなった今日の警察こそが異常なのであり、このような警察を野放しにしている日本の政治と国民こそが問題なのだ。法と正義を守る警察が自ら犯罪に手を染め、自浄できぬまま社会環境を汚染している。日本の治安悪化の元凶の一つは警察の堕落とモラルハザードにある。
モラルハザードは法整備によって解決できる問題ではない。警察の犯罪や不祥事に限らず、賄賂や官製談合や政治腐敗など全ての面で言えることだが、どれほど罰則規定を強化し法整備を図っても、それを守る人間がいなければ法は守られない。法の網をスリ抜ける運用と解釈の悪知恵を働かせて犯罪行為を正当化し合法化する。罰則規定の条文の山があっても、それを守る人間がいなければ結局のところ意味はないのだ。つまり倫理の整備である。例えば、最近の日本人は赤信号でも車が通っていなければ平気で道路を横断する。二十年前はそうではなかった。車の通行がなくても信号の前で待っていた。中国へ行くと、西安で実際に体験したことだが、無論、それは全部ではなく、一部の偶然の出来事だったけれど、交差点で(人ではなく)車がそれをやっている場面があった。交通法規の遵守がルーズで、車の運転がデインジャラスだ。日本人が見ると驚く道路交通実態がある。中国にも日本と同じ道路交通法があるはずだが、法を守る人間がいないとそのようになる。
少し関連するが、山口二郎が「政治改革」の中で次のように書いていた。「議論の出発として、ここでまず政治腐敗がなぜ頻繁に起こるのか、その原因について考えてみたい。贈収賄や政治資金規正法違反などの政治腐敗が問題となるたびに、世論では政治倫理の確立が叫ばれる。しかし、議論のはじめに確認しておかなくてはならないのは、政治腐敗は金をもらう側の政治家および官僚や、金を出す側の業者の、心構えや倫理の問題ではないということである。もちろん政治家や経営者がみんな清く正しい人間になれば腐敗はなくなるが、改革の方法を議論する際に、権力者やこれに利益を求めて群がる人々の内面を改造しようというのは、もっとも非現実的な発想といわざるをえない。政治改革の論議は宗教家の説教とは違う」(P.13)。だから二大政党制にして、政権交代するシステムを作れば、自動的に政治腐敗を根絶できるから選挙制度を変えようと言って、小選挙区制にしたのが「政治改革」だった。二大政党制の政権交代システムは政治腐敗自動浄化装置の触れ込みだった。
小選挙区制を導入して十年が経ったが、最近の日歯連汚職事件にせよ、耐震強度偽装問題にせよ、政官業の黒い癒着の問題は次から次へと噴出して止まるところを知らない。腐敗は続きながら政権交代はサッパリ実現せず、山口二郎ら政治改革イデオローグが国民に公約した「政治腐敗浄化システム」は実のところ全く機能しなかった。法制度を整備すれば腐敗や汚職がなくなるというのは幻想のようである。法が守られるためには、法を守る人間が作られねばならず、人間の内面こそを整備しなければならない。人間の内面が破壊され荒廃しているから日本の治安が悪化するのだ。整備が必要なのは外側のシステム(法)ではなく、内側のシステム(倫理)である。法と倫理、外側のシステムと内側のシステム、その両方が揃ってはじめて社会の正義と秩序が維持される。規範はそれを規範として内面化する精神がなければ規範とはなり得ず、ただのタテマエを箇条書きした紙切れで終わってしまう。堀江貴文の経営における法律認識と同じで、「違法とは意識していなかった」、すなわち「捕まるまで違法とは思わなかった」である。精神の育成と内面の整備こそが今まさに必要なのだ。
「政治改革」は国民にとって何の利益にもならず、民主主義を発展させるどころか、逆に国民の政治不信と政治離れを加速化させ、死票の山を築いて投票率を押し下げる結果となった。「政治改革」で儲けたのは、山口二郎や後房雄ら政治改革学者と、松下政経塾と、二大政党制によって労せず大量議席を確保できるようになった民主党と、政党助成法の恩恵によってさらに大金を稼いだ自民党だけだった。民主主義は制度ではなく運動だと言っていたのは日本の政治学の伝統を作った丸山真男だったが、丸山真男の学舎を出て職業に就いた山口二郎が上のような事を言い、丸山真男の本屋からランプマークの新書が出るのが、私には全く理解できない事だった。日本の民主主義を守り発展させるためには、国民の一人でも多くを民主主義者にしなければならない。まさに内面の問題そのもの。丸山真男の政治学は、日本国民の一人でも多くを民主主義者にするための学問であり、民主主義者を育てる教師を育てる学問だった。内面(倫理)の整備が疎かにされ、民主主義者が減り、民主主義思想が薄くなり、国民大衆が江戸期の庶民に戻り、日本国憲法を守っているのが天皇陛下だけになった。
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警察法・刑事訴訟法・犯罪捜査規範 - 川俣力一(元署長)の出世
http://critic2.exblog.jp/3236772/
2006-04-14T23:30:00+09:00
2006-05-09T17:57:25+09:00
2006-04-16T16:23:32+09:00
thessalonike2
山口県母子殺害事件 (6)
窓口対応した当時の栃木県警石橋署の生活安全課の署員と課長の氏名を調べているのだが、ネットの中で未だに発見できていない。当時の石橋署長は判明していて、氏名は川俣力一で、何とこの男は栃木県警の生活安全部長に出世していた。それからまた、私は三年前の業務上過失致死容疑での刑事告発に対して当時の石橋署員を「嫌疑不十分」で不起訴処分にした宇都宮地検の担当検事と責任者の氏名も知りたくて、どのような検察官がそのような判断を下したのか国民は知る必要があると考えている。判断の誤りと責任が追及され、その上で社会的制裁が加えられるべきだ。このような免責免罪が許されるならば、警察はどのような被害の訴えに対しても捜査をする必要がなく、被害者が死体になって発見されるまで事件として扱わなくてよいということになる。今回の事件においては警察は最初から最後まで加害者なのであり、権力を使った殺人幇助と悪質な犯罪隠蔽を行っている。権力犯罪だ。
こういう事件を見ながらいつも思うことだが、日本では警察官の犯罪を取り締まる法律がない。という表現が適切かどうか分からないが、警察官の捜査行為を拘束して違法行為を糾す法律がない。という問題を考えさせられる。具体的に言うと、警察法というのがあって、その第2条で「警察の責務」が定められていて、例えば今回の事件における石橋署員の対応は、「警察は、個人の生命、身体及び財産の保護に任じ、犯罪の予防、鎮圧及び捜査、被疑者の逮捕、交通の取締その他公共の安全と秩序の維持に当ることをもつてその責務とする」とする条規に明らかに違反しているはずなのだが、この責務規定に違反した場合の罰則規定が警察法にはない。責務を抽象的に表現した一般条項の地位にとどまっていて、分かりやすい日本語で言えば「タテマエ」である。警察法は主として警察の組織について定めた法律で、公安委員会の地位を形式的に定めた法律だが、我々の期待する「警察基本法」的なものとは程遠い。
それから警察官職務執行法という法律があり、これはどうかと念のため見てみると、この短い法律は警察官が職務執行するに際して関係者の人権や権利を十分に保護し配慮するように定めた法律で、警察官の職権濫用を戒める目的と意義があるものだが、これもまた警察の組織や司法警察員の行動の全般を規制拘束する「基本法」の性格はなく、また警察官の職権濫用によって一般市民の人権を傷つけた場合の罰則規定もなく、抽象的な目標条項の羅列となっている感は否めない。犯罪捜査とか司法警察とかを一般的網羅的に規定した法律(基本法的なもの)はないものかと探していると、どうやらそれは法律としては刑事訴訟法が代行しているのである。私の見るところでは、警察にとっては刑事訴訟法が全てなのだ。例えば警察の捜査とは何かという問題だが、それは刑事訴訟法の捜査こそが警察の捜査活動の法的根拠になるもので、読めば気づくが、驚くほどに無制限のフリーハンドである。
捜査の方法や手続について刑事訴訟法は警察に拘束と監視を与えるのではなく、逆に裁量の自由を与えている。須藤夫妻の九度にわたる石橋署への捜査要請に対して「警察は事件にならないかぎり動かないんだよ」と言って追い返していた石橋署員の行為が、何故に違法行為とならないのか不思議なのだが、業務上過失致死容疑の告発を不起訴処分にした検察官の頭の中にも、警察の行為については刑事訴訟法だけが万能なのだという考え方があったに違いない。この栃木リンチ殺人事件も、それから桶川ストーカー殺人事件も、同じように被害者家族からの訴えや届けが生活安全課や末端刑事のファイルに格納隠匿されたまま、組織の上部に上がらず、捜査が起動されなかった。刑事訴訟法では189条で「司法警察職員は、犯罪があると思料するときは、犯人及び証拠を捜査するものとする」と定めているけれど、どのような場合が「犯罪があると思料するとき」なのかを規定していない。
司法警察員が「犯罪があると思料するとき」が「犯罪があると思料するとき」なのである。具体的な要件を客観規定しておらず、したがって犯罪があると思料しなければならない事案において思料を怠った者の不作為の責任を追及する法的根拠が明示されてないのだ。現場の自由裁量を法律が保障している。私は、この刑事訴訟法189条を補完する警察庁の内部法令とか、警察官心得の一般規定のような法規があるはずだと思ってネットの中を必死で調べたが、その目的を満たす法令を探り当てることができなかった。その代わり、犯罪捜査規範というものを見つけた。これこそ実に犯罪捜査の基本マニュアルそのもので、きわめて重要なものだが、これは法律ではなく内規であり、また例によって条規に違反した場合の罰則の規定がない。「被害届」の法的根拠や法的効力も刑事訴訟法の中には明記がない。刑事訴訟法の中には「被害届」という言葉がない。犯罪捜査規範の中で定められた制度である。
市民社会の立場からの警察基本法を制定する必要がある。が、これは簡単ではないだろう。例えば、いま巷で論議されている政権交代が起きて民主党が政権に就いても、「警察基本法」の制定はないだろうと思われる。結論から言えば、市民革命が起きないかぎり、日本人が警察の不正や犯罪を止める手段や環境を社会的に獲得することはできないのではないか。
(上から四枚目は4/12の地裁入りの写真で、赤い女性ものの雨傘は亡くなった妻の洋子さんのもの)
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栃木リンチ殺人事件
http://critic2.exblog.jp/3221973/
2006-04-13T23:30:00+09:00
2006-10-07T23:20:00+09:00
2006-04-14T09:52:16+09:00
thessalonike2
山口県母子殺害事件 (6)
被害者の母親の須藤洋子さんが病気でお亡くなりになっていた事実は、今回のニュースで初めて知った。この事件は心に重く、ずっと頭の中にとどまっていた事件の一つだったが、まさか母親まで犠牲になっていたとは知らず、しかも五十歳の若さで死んでいた。六年前に「ニュースステーション」で事件報道を見たときは、夫婦二人で被害者の正和さんの墓参りをしている絵が映されていて、お元気そうであり、まさか四年前に脳出血で永眠されていたとはとても信じられず、悲しい気持ちでいっぱいになる。被害者の正和さんのお母さんらしく、見るからに心のやさしそうな方だった。宇都宮地裁の民事訴訟で原告勝訴の判決が出て、判決は妥当なものだが、栃木県警は「主張が認められず残念」とコメントを出していた。判決では警察の捜査怠慢によって被害者が死に至った事実を認めているが、この事件の因果関係を客観的に見てみれば、これは単に「捜査怠慢」などという言葉で民事責任だけが追及されて済む問題ではなく、むしろ明らかに業務上過失致死の犯罪が要件構成される重大な刑事事件なのではないかと思った。
そう思って調べていたら、やはり、当時の栃木県警石橋署の担当署員を業務上過失致死容疑で告発していた正義の人が三年前にいて、残念ながら検察によって「嫌疑不十分」とされ、不起訴処分にされていた。このときの地検の判断は「必要な処置をとらなければ正和が死亡するなどの重大な結果が起きると、署員が認識するのは困難だった」とするもので、今回の宇都宮地裁の判断、すなわち「警察が捜査を怠ったことにより被害者が死に至った」と述べた判決と真っ向から対立する。こういう場合はどうすればよいのだろうかと思って悩んでいたら、被害者の両親が立ち上げたHPの中で、当時の石橋署員が正和さんの母親の洋子さんに警察の失態を隠蔽する責任を押し付ける名誉毀損行為を糾弾している件があり、亡くなった主任弁護士の小野瀬芳男氏は、名誉毀損での刑事告訴を考えていたのかなと思われた。この石橋署(現下野署)の元署員と署長、そして当時の県警幹部に対しては、絶対に刑事責任の追及が行われなくてはいけない。民事の損害賠償責任で済むはずがない。母親の洋子さんも被害者だ。
突然のわが子の不可解な状況を理解できない私たち夫婦は、日産自動車上三川工場に相談したが、そこに待っていたものは、被害者(正和)と、電話で呼び出したBに対して会社が行った社内調査が書類にまとめられ、Bの証言をうのみにした「調査報告書」が用意されていた。そこには、『須藤が嘘を言っていると思われる。』と記されてあった。が、気が動転していた私たちには理解できぬまま、県警から天下った総務の人間に言われるまま石橋署に捜索願いを提出してしまった。それからと言うもの、何度石橋署に足を運んでも返ってくる言葉は、「あんたの倅が、仲間に金を与えて面白おかしく遊んでるんだろう」「そんなに大金を借りあるいているのは、麻薬でもやってるんじゃないのか」そんな対応をされている間に、犯人等は、被害者に対し、毎夜ホテル内の浴室で熱湯シャワーを浴びせ、殺虫剤スプレーにライターで火を付け、被害者が泣き叫び、もがき苦しむ姿を笑い楽しみ、挙句には、ホテル内に用意してある湯沸しポットのお湯を沸騰(90℃以上)させ、何杯も全身にかけ、皮膚は剥がれ落ち、膿が滴り落ちる状態であった。
もう解約できる保険もなくなり、借金をしました。理容業組合の支部長が二つ返事で 保証人の印鑑を押してくれたときには、ありがたくて涙が出ました。 正和は、28日に渋谷から宇都宮に連れてこられ、市内のホテルを転々と連れ回されて いました。リンチは湯沸かし器の熱湯をコップに入れたものを浴びせかけるというものに変わっていました。湯沸かし器の湯は熱湯シャワーのリンチ以上に熱く、90℃もあったそうです。さらに、彼らは広範囲にわたって焼けただれた正和の頭や背中を靴べらでその靴べらが 折れるまで殴打したり、無理矢理大量のピザを食べさせたりしています。28日からはリンチに渋谷からついてきた高校生のTも加わっています。 4回目の公判では、この頃のリンチの様子について、検察官とUのやり取りがありました。「須藤さんはどんな様子でしたか」 「皮がはがれてぼろぼろになっていた」 「どう思いましたか」 「どうなってもいいと思った」 「苦しむ須藤さんを見てどういう気持ちでしたか」 「面白かった」 私ははらわたが煮え操り返り、叫びだしそうになりました。
司法解剖の結果、正和の胃は空っぽでした。食事も与えられていなかったのです。この日はいったん深夜に帰宅しました。そしてH、M、Uの家に電話しました。悔しさが一気にあふれ出しましたが、気持ちを抑えて「明日、火葬される前にどんな顔になっているか見にきてくれ」と言いました。どの家族からも謝罪の言葉は一切なかった。それどころか「うちの子がいま、どこにいるのかわからない」と、自分の子供の心配ばかりしている有り様でした。「警察に捕まれば5,6年は出てこれない。20代の一番楽しい時期を刑務所で過ごすのか」Hはこう言って正和の殺害を持ちかけたそうです。そして、遺体が見つからないようにするために、セメントやスコップ、軍手、作業着を正和の最後に振り込まれた給料をおろして買い揃えました。「ちゃっちゃっとやってこい」というHの指示によって、M、Uは正和が血を吐き倒れてもまだ、ネクタイで首を絞め続けたということです。正和が埋められた穴はその直前に、まだ生きている正和の目の前で掘られました。
(H - 萩原克彦 U - 梅沢昭博 M - 村上博紀)
浴室のドアの前に、コップを持った松下が立っていた。中身はオレンジジュースだったが、一目で白いドロドロした液体が混じっているのがわかった。松下(=村上博紀)が命令した。「俺の精子が飲めないのかよ……」 リンチはこの瞬間に一線を超えた。熱湯シャワーを浴びせられ続けた正和の体から湯気が立ち上がり、体力的限界のなかでそれが何かを悟り、一瞬、嫌な顔をして拒否したが、考えるまもなく松下(=村上博紀)の言葉に屈服せざるを得なかった。私が三人の供述調書からこのシーンを読み取ったときの感覚は、とても私の拙い文章で書き表せるようなものではなかった。戦慄を覚えた?いや、そんな簡単なものではない……。あらゆる暴力と脅迫で正和をいたぶり続けた犯人たちが、とうとう肉体的苦痛を超え、人としての尊厳まで冒してしまったのだ。
しかも、これは単なる狂気のはじまりにすぎなかった。「おまえたちもオナニーしろ。あと3分で出せなかったら須藤にフェラチオさせる。それでも出せないやつは罰金10万円だ」主犯格の藤原(=萩原克彦)が、植村(=梅沢昭博)らにそう命じたのだ。結局、射精できなかった高橋(=T)が、正和にフェラチオされ、藤原(=萩原克彦)がその写真を撮るという異常な事態に発展した。一方、植村(=梅沢昭博)はコップの中に射精していたが、そこに小便をして正和に突き付けた。「一気に飲め……」 それが終わると、犯人たちは再び風呂場へ正和を連れていき、植村(=梅沢昭博)が羽交い絞めにし、松下(=村上博紀)が正和の胸から下腹部にかけて熱湯シャワーを浴びせたというのだから、これはもはや人間の行為では断じてない。
言葉にならない。絶対に許せない。
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